第1章 現在にいたる水俣の背景(企業城下町の悲劇)


1、企業城下町水俣とチッソの歴史
 【現在に至る水俣の背景】
現在水俣では、「もやい直し」「地元学」といった動きを背景に、家庭ごみの23種類分別収集や、市でのISO14001の取得、水俣独自の基準である家庭版ISO、学校版ISO、環境にいいビジネスの創造など様々な取り組みを行っており、水俣病の教訓を生かし環境に配慮したまちづくりを行政・住民・事業者が共同で取り組んでいる。このような取り組みによって地域経済や地域のコミュニティーは活性化してきており、水俣病というマイナスのイメージの伴う地域から、水俣病の教訓を生かし地域が一体となった環境に配慮したまちづくりを進めている先進的な地域というイメージをもつ都市へと変化してきている。とくにそのなかでの水俣病患者も含めた市民の動きには注目すべきものがあり、市の取り組みにも意見を出すだけでなく実際に運営に携わるなど、自治の気運が高まっている。
このような動きは、環境に配慮したまちづくりを目指す自治体や、地域振興を目指す自治体などや様々な機関などから注目され、各自治体からの視察や、環境に関心の持つ者や、環境教育の一環としての修学旅行生の数なども年々増加している。しかも、水俣でのこのような取り組みは近年10年余りで構築されたものであり、その変化は他地域から見ているとまさに劇的なものと感じられる。水俣の取り組みは、環境問題への消費者の意識の向上や、地方自治の促進、環境に配慮しながら生活のなかでの豊かさを実感できる社会の構築など、現在の社会とは異なるオルターナティブな社会の構築が求められる現代においては、水俣から学ぶべき点は多く、これからの生活や社会を考えるうえでの大きなヒントを含むものがあると考える。
しかし、水俣における新たな動きを見ていくうえにおいて、水俣の過去の出来事、とくに近代からの水俣の動きを考慮せずに捉えていくことは難しい。確かにどんな地域においても、過去と現在のつながりを考えることは重要なことには違いないが、水俣においては過去の出来事及び動きを見ることは、他の地域以上に重要な意義を持つと考えられる。なぜなら水俣では近代において「水俣病」という地域の名前の冠せられた、世界でも稀有な公害事件を体験したぶん、過去から残る被害や問題は大きく、現在にも大きな影響を残しており、そのような影響があったからこそ水俣では新たな動きが出てきたとも言えるからだ。
 とくに、チッソと水俣の現在までの関係性をみていくことは現在の水俣を理解する点で最も重要であると考えられる。水俣は日本を代表する科学企業のひとつであるチッソ(旧 「日本窒素肥料株式会社」及び「新日本窒素肥料株式会社」、以下チッソと述べるときこの三つをまとめて指すことにする)の企業城下町として発展してきた町であり、一寒村にすぎなかった水俣はチッソの進出によって、雇用や税収、鉄道や港湾の設置・整備など多くの恩恵を受け県下でも経済的に最も豊かな町の一つになり、チッソもまた水俣の社会的・経済的価値といわれるようになり、チッソは名実ともに水俣という城下町を治める存在になっていった。そのため、城下町の領主ともいえるチッソが水俣病を発生させたため、町は混乱し、水俣病の解明や、問題の解明が長期化する原因になり、地域での人と人との関係性の分断や対立など、地域に対する経済的恩恵の反面で数々の問題を引き起こしてきたが、現在の水俣で行われている新たな動きも、そのような背景を理解せずに考えることは難しい。
ここでは、近代における水俣の地域経済の変遷、とくにチッソの企業城下町として発展してきた水俣におけるチッソの役割と市民などへの影響をみていくなかで、現在に至る水俣の背景について考えていきたいと思う。

 【水俣の位置と不知火海との関係】
 水俣市は熊本県の最南端に位置し、北は芦北郡津奈木町、南は鹿児島県出水市及び大口市と境を接しており、熊本市へ約90km、鹿児島市へ約100km、宮崎市へ約150km程のところに位置し、面積は162.6平方キロメートルと熊本県11市のうち4番目の広さを有し、現在の人口は約3万2000人、年間平均気温は約17℃、平均降水量は1,771mmと温暖多雨な海洋性気候の町である(水俣の概要図については次頁図1‐1参照)。
 水俣は肥薩連峰が不知火海に迫ったわずかな平地にできた町であり、西北が広く海に開け、市の中央部を水俣川が横切り、山に囲まれた水俣の中心を河川が貫く形となっており、市の大部分は山や中山間地域に占められ、過去には林業などが盛んであった。深い山並に囲まれた水俣では、近代まで交通の便にも恵まれず、経済的に自然孤立的な条件のもとで育ってきており、物資の交流も隣接した芦北・球磨・北薩および海路による天草・島原方面などと行われていたが、水俣は肥薩をつなぐ政治・軍事上重要な場所であったため、肥薩間の往来は多く、水俣は旅人の足溜まりとなっており、水俣の商業はそのような旅人を相手にしたものから始まったと考えられる〈 〉。
 また、水俣は風光明媚な町であり、山の温泉郷「湯の鶴」、海の温泉郷「湯の児」の両温泉を抱え、水俣湾口には恋路島が浮かび、県25景の一つに選ばれたという茂道湾の眺望や、袋、月浦一帯のみかん園、桜野上場および石飛地区の集団茶園、頼山陽が感嘆した亀嶺峠の眺望など豊富な観光資源をもち、自然の景勝に恵まれた地形を持っている。
 特に、水俣市が面する不知火海は、景観の面においても、資源の面においても、また精神的な安らぎにおいても水俣に多くの恩恵を与えるものであり、水俣で生きるものにとってかけがえのないものであった。
 不知火海は、九州本土と対岸の天草諸島に囲まれた穏やかな内海で、魚種の豊富な海域で、大潮のときは3mから4mも潮の満ち引きがあり、そのなかで稚魚達は育ち、なかでも水俣湾周辺は、天然の漁礁に恵まれた魚類の産卵場であり、過去には、入り組んだリアス式海岸沿いに、豊かな漁場の恩恵を受けた小さな漁村が点在し、漁師達は金銭的には富んでなかったが、恵まれた海とともに自足した生活を営むことができた。
 海際の家に住むものは、客人があれば、やかんを火にかけて浜に下り、魚やタコを捕って戻るとちょうど湯が沸き始める頃であったといわれるほど魚影が濃く〈 〉、大漁の日には、カタクチイワシ、タチウオ、アジ等の魚が干し場がなくなるほど網上げされ、またビナと呼ばれる小型の巻貝や、ナマコ、アサリ、カキ、カニ、ウニ、シャコなどは浜辺において子供たちにも簡単に取れるものであり、子供たちのおやつ代わりや、漁師以外の職につくものも浜に出てはそれらのものをとり夕餉のおかずとするなど、地域住民にとっても貴重な蛋白源採取の場であり、不知火海は魚が湧く海と形容されるほど豊かな海であった。
 このような生活風景は昭和20年代頃までみられ、いまも水俣では多くの魚介類がとれ、磯釣りを楽しむ人や、海水浴・観光を楽しむ人も多く、海の恩恵を多く受ける町である。
水俣病はこのような町で発生し、水俣病により不知火海などの自然環境や産業、そして人間関係も一変することになったが、この原因企業がチッソであった。

 【水俣病と化学企業チッソ】
 まず水俣病について簡単に見てみると、水俣病はチッソの排出した工場排水中のメチル水銀に汚染された魚介類を多量に摂取することによって起こったメチル水銀中毒であり、中毒であるので空気や食物を通じて移る伝染病ではなく、遺伝することもない(水俣病の発生概略については下記図1‐2参照) 
 水俣病の発生は、1956年(昭和31年)に熊本県水俣市で公式確認され、その被害は不知火海ほぼ全域に至るものであり、1968年(昭和43年)に国がチッソによる公害病と認めたが、その間に効果的な対策はうたれず患者の発生は続くことになった。 
 また、水俣病は人間だけでなく、ネコなどの哺乳類や、カラスなどの鳥類といったものにも見られたが、水俣病は、動物の体内に入ったメチル水銀が、主に脳など神経系を侵し、手足のしびれ、震え、脱力、耳鳴り、耳が聞こえにくくなる、視野狭窄(目が見える範囲が狭くなる)、言葉がはっきりしない、動きがぎこちなくなるなど様々な症状を引き起こし、死に至る場合も多く、水俣病の発生初期には、狂ったような状態や意識不明になり、発病から1ヶ月以内に亡くなるといった重症患者もおり、ネコやカラスも発症すると同様の症状を呈したため、水俣病発生当初は「猫踊り病」などと呼ばれた。
 また、水俣病は見た目にはわからなくても、頭痛や疲労しやすい、匂いや味がわかりにくい、物忘れがひどいなどの症状があり、日常の暮らしに困る慢性型の患者や、汚染された魚を食べた母親の体内でメチル水銀に侵され、障害を持って生まれた胎児性水俣病患者も発生したが、水俣病の根本的な治療法は今のところ発見されてなく、それぞれの症状に対する対処療法や機能訓練が行われている段階であり、今も水俣病の症状で苦しんでいる人は多い。水俣病患者の数を見てみると、水俣病の認定申請を行った人で、熊本県・鹿児島県両県合わせて(以下、全て両県の合計)述べ1万7,000人以上、そのうち行政によって認定された患者は2,264人、うち死亡者1,408人(2000年10月31日現在)であり、また、1995年水俣病未認定患者救済のための政府解決に基づいて、チッソからの一時金支給の対象になった人は10,353人であり、よって今のところ行政によって水銀の影響が認められた人は12,617人である〈 〉。しかし、これ以外にも公式確認以前に死亡した人や、死認定申請も医療事業への申請も行わないまま死亡した人、様々な事情で申請しなかった人も多く、被害を受けた人の正確な数字はわからず、全体の数は10万人ともそれ以上ともいわれている。
 このような悲惨な公害病を生んだチッソについて見てみると、チッソの歩みは日本における化学産業の歴史とも言えるものであり、優秀な化学企業として水俣を中心に、様々な製品を開発・製造し、日本の豊かさに貢献してきた企業である。チッソの歴史は明治39年に野口遵氏によって、当時の鹿児島県大口村に曽木電気株式会社を創立し、翌年に日本カーバイド商会を設立、水俣工場を建設したことに始まる。
 日本で始めて空中の窒素を固定することに成功し、その後も石灰窒素を硫安に編成することにも成功するなど様々な技術により発展していく。大正15年には、朝鮮に進出し朝鮮窒素肥料株式会社を設立し、次々にダムと発電所を新設し、廉価で豊富な電力を利用し、硫安を主製品に最先端の化学技術製品を生産し、同種の工場では、世界第二位、日本では三菱重工業、日本製鉄につぐ大企業となる。海南島、インドネシア、ジャワ、シンガポールにも進出し、終戦直後には従業員は約8万人に達していたが、この間わずか40年であり、いかにすばらしい企業であったかがうかがえる。
 私たちの生活にもチッソの製品を多く見ることができ、今も水俣等において様々な製品を製造しているが、チッソの製品は戦前の製品では、変成硫安、合成硝酸、合成酢酸、塩化ビニル、戦後にはオクタノール、高度化成肥料、超高純度シリコン、最近ではエレクトロニクスの最先端技術である液晶材料やES繊維などエレクトロニクス、ニューマテリアルといった最先端の分野へ拡がっており、数え切れないほどの製品を世に送りだし、それらの製品は、肥料、ビニール、紙オムツ・生理用ナプキン、自動車や家電製品の部品、ハム・ソーセージの保存料、液晶の時計や電卓の表示部分、化粧品の保湿材、フロッピーディスク、8ミリビデオテープなど幅広い分野において、私たちの生活に見ることができ、私たちの快適な生活に大きく貢献している。(チッソ製品については次頁図1‐3参照)
 また、いまではチッソをはるかに上回る日本化学工業界のトップランナーとなった、旭化成工業株式会社や清水化学工業はチッソの流れをくむ企業でり、旭化成は、日本窒素肥料の延岡工場が、戦後の財閥解体で独立したものであり、また積水化学は戦後海外から引揚げてきた日本窒素肥料系会社の若手社員たちが、引揚げ者の生活救済のためにチッソ製品の販売会社としてはじめた積水産業株式会社が出発点であり、積水という言葉も日本窒素系企業が築造し続けてきたダムに「積もる水」に由来していた。他にも日本窒素の流れをくむ会社として、日本工営株式会社、株式会社ニッチツ、運送会社のセンコー株式会社などがある。先進的な化学企業であったチッソの発展は水俣にも大きく寄与するものがあり、チッソの発展とともに水俣もチッソの企業城下町として発展してきた。チッソと水俣のつながりは深く、その関係は1900年ごろまでさかのぼることができ、水俣はチッソの企業城下町として発展し、雇用や税収、各種の施設などチッソの恩恵を受けてきており、いまではその地位は低下しているが、チッソは現在も水俣で操業を続けており、いまでも水俣の主要な産業の一つとして数えることができる。チッソの水俣に果してきた役割は大きく、経済的な面でもチッソは水俣で重要な位置をしめ続け、従業員数や市の税収、固定資産税などをみるとその影響がいかに大きかったかがうかがえる。
 水俣市役所が公表している数値によると1953年には、水俣市内所在の固定資産税課税対象資産の評価額は総計28億8,200万円であったが、そのうち62%がチッソ水俣工場関係であり、同年の市が徴収した個人市民税の総額3,052万円のうち、チッソ水俣工場の従業員のものは、51.4%をしめていたというから〈 〉、いかに水俣でチッソの存在が大きかったかがうかがえる。
また、チッソによりインフラ面でも充実していき、国鉄鹿児島本線が開通すると(1926年)工場の正門前に駅をつくり、また梅戸専用港の整備、社宅の建設、診療所開所、現在も市民に多く利用されている職員購買部水光杜〈 〉の開店など、チッソ関連の施設や企業が相次いでつくられ、チッソの企業城下町の形成は大正末期までに着々と進行していき、水俣ではチッソの存在はとてつもなく大きくなっていき、水俣市長などにも橋本彦七など水俣工場関係者がつくなど、チッソあっての水俣という神話が形成されていく。
そのため、1956年水俣で奇病が発見され、その原因としてチッソが疑われても、その原因究明に長い年月がかかるなどの問題が発生し、患者の発生を拡大してしまうことになる。これは水俣病の発生源をつきとめ、発生源を断つことは、チッソ工場の生産活動を止め、水俣の雇用の大部分を占めるチッソの雇用の喪失を意味していたためである。
そのため、被害者救済を課題に立てるとき、それは被害者でない人々の生活を追い詰めることと受け止められ、水俣病の発生を止めるために工場での生産止めるのか、工場の生産を続行するためには水俣病の発生はやむをえないのかという選択をつきつけられたとき、当時の水俣市長であった橋元彦七は後者を選択し、経済発展に酔いしれた日本政府も公害には片目をつぶり、そして世間もそれをよしとした。
 しかし、チッソはなぜ水俣で操業を始め、どうして急激な成長ができたのだろうか。そして市民はどう受けためたのだろうか、また企業城下町としての水俣支配にはなにか水俣病以外にも問題はなかったのだろうか。この点について少し詳しく見ていきたい。

 【チッソの進出と水俣の状況】
 水俣の急激な発展は1900年代前後からであるが、とくに日本窒素肥料株式会社(後のチッソの前身)が水俣にできてからはその速度ははやまり、日窒工場の拡張とともに県南屈指の町として拡大していく。
 チッソ進出以前の水俣を見てみると、水俣は近代にはいってから人が移り住んだ場所ではなく、古くから人の住んでいた場所であり、いまから約1000年あまり昔の延喜式には水俣の地名を見つけることができるが、明治にいたるまでの人口についての記録はなく、時代別の人口動態を推測することは難しく、ある程度の人口を持った農漁業を主とした村落が続いていたことは間違いないだろうが、その生活形態は自給自足に近いものであったようである。1889年(明治22年)になって、水俣は市町村制度の施行により、陣内・浜両戸長役場を併合し水俣村が誕生するが、このときの村戸数は2,349戸、人口12,303人であり、当時の水俣はいわゆる寒村の様を呈していた。
 当時は生産性が非常に低く人口過剰の感があったため、明治24年8月のハワイ国移民募集には45人が応募しているという状況ではあったが、1895年(明治28年)には村役場の新築も完成し、村の体制も整い、産業の発展策に強い意欲を燃やし始める〈 〉。
 そのようななか、水俣にチッソの前進となる日本窒素肥料株式会社(曽木電気と日本カーバイド商会合併したもの)が進出してきたのは1908(明治41)年のことであった。
 チッソは1906年に初代社長、野口遵(のぐち したがう)が曾木電気を鹿児島県大口村に設立し、水力発電所を開設したことに始まるが、チッソの前身である日本窒素肥料株式会社の初代社長である野口遵は、東京帝国大学工科大学電気工学科を1896年(明治29)に卒業するなどいわゆるエリートコースを歩んできた人物であった。
そのころ日本は、日清戦争に勝利し近代化を目指して躍起になっていた時代であり、殖産興業、集権強化、鹿鳴館時代と強引な近代化が推進され、日本は名実ともに世界の一等国になろうと燃え、個人の行動も直接国家の躍進につながると信じられた時代であった。
野口もまた時代の子であり、野口と親しく昭和30年代には新日本窒素の会長となった金田栄太郎が、「野口遵翁追悼禄」のなかで、野口について「日本窒素の事業を発展せしむることが国家に対する奉仕なり、との信念で、一切脇目も振らなかった」と書いているが、野口はそのような信念のもとで己の事業欲を充足させていったのである。
 野口は卒業後10年ほどいくつかの会社を転々としたが、その間、仙台の三居沢で藤山常一とともに日本最初のカーバイド製造研究に携わったことが野口に大きな影響を与えることとなり後の水俣のカーバイド製造につながっていくが、その後野口は、飲食店で偶然知り合った鹿児島の鉱山師に大口、牛尾などの金山に電気を供給して欲しいと頼まれたことから、1906年、鹿児島県伊佐郡大口村(現在の大口市)で曽木電気株式会社(資本金20万円)を興すことになるが、以後の野口の事業では、自社発電で電気を賄うという手法が貫かれるが、曽木電気はその出発点であったといえる。
 曾木電気の発電量は800kwとわずかなものであったが、それでも当時の電気消費量は少なく、近隣町村、金山などに電力を供給してもなお余るほどであった。そこで野口はこの余剰電力をカーバイド製造に向けていく。
 カーバイドは1トンを製造するのに3,300kWの電力を必要とし、原価から見ればその半分は電力といってよいほど電気を消費するが〈 〉、余剰電力を利用するには最適の産業であった。また、「野口遵翁追懐録」によると野口は工業の発展には製品に付加価値をつけることと、利潤の拡大には使う端から消えてなくなるものを製品として造ることを必要と考えていたようであり、カーバイドをカンテラや溶接材としてそのまま売るだけでなく、付加価値をつけることを考えていたことがうかがえる。
 水俣でのカーバイド製造もフランク・カロー式石灰窒素技術の導入で付加価値をつけてゆくことになるが、その後も野口はカザレー式アンモニア製造特許、ドイツのベンベルグ杜から銅アンモニア人絹製法特許を購入するといった具合で、つぎつぎと世界のトツプ技術を導入し、付加価値の高い製品の開発に力をいれていく。
チッソ進出前後の1900年ごろの水俣の状況を見ると、林産物、石炭の荷揚げ、寛文7(1667)年以来続いている塩田による塩の製造のほかは、素朴な漁港の点在するのどかな町であり、石炭の荷揚げは大牟田方面から運ばれてきた石炭の荷揚げ港として活況を呈しており、これは近隣の大口金山と牛尾金山が全盛期であったことから、その金山のエネルギーたる石炭を水俣河口に荷揚げし、荷馬車で金山まで山道を運び、帰りには薩摩や久木野から材木や石炭を積んで戻り、それを船に積み替え長崎や北九州の炭坑地域に運んでいたことによるもので盛時にはそうした荷馬車の数は400台をこえていたという〈 〉。
しかし、野口の曽木発電所が開業し安い電力エネルギーを金山に提供するようになることで、石炭の荷揚げは姿を消していくことになる。また、1900(明治33)年7月、1905(明治38)年8月と水俣は連続して大洪水に襲われ、1901年にはその水のひいたあとでコレラが舟津、湯出(ゆのつる)に発生し、不景気を深めた。
また、この当時大きな出来事として、水俣にとって重要な地場産業であった製塩業が、1905年(明治38年)日露戦争による国家財政の赤字補填のためもあり政府が塩の専売制を施行したことにより、1909(明治41)年には塩専売所水俣出張所が廃止され、1910年には歴史的な水俣製塩業は終結し、寛文七年(1667年)、深水家二代の頼秋による潮止め工事で塩田17町9反から始まり、250年あまり続いた製塩業が姿を消した。
廃止当時、塩焼小屋(ボヤ)は、下浜(チッソ工場の丸島側)、朱利神(同工場中心部)、平浜(同工場元石灰塔付近)、四軒中洲、内浜などの地区に、合計93軒の塩焼小屋があり、協同経営者を含めて、浜、古賀、丸島、江添、平、百軒、月浦、新地地区の農家約200余軒の人々が、唯一の現金収入の副業として従事しており、廃止当時34町2反9畝の塩田で、年間数万俵(一斗俵)が製造され、塩の生産高の約70%が佐賀及び島原方面に送り出されソーメン製造に使用され、肥前方面からの交換物としてソーメン、畳、瀬戸物などの物資が陸揚げされ、交易のため常に肥前通いの大型和船5〜6隻水俣川に入航するなど、製塩は水俣にとって産業および経済史上重要な役割を果してきたが、その廃止により、塩田に依存していた数百戸の人々が職を失い、現金収入の道を閉ざされるなどその影響は大きかった〈 〉。
このようななか、この余剰労働と塩田の跡地を安く買い求め近代的大工場の建設を画策した企業がチッソの前身となる、日本窒素肥料株式会社であった。
 当初野口は、近隣にある鹿児島県米ノ津のほうが距離的に8km近く、また築港もあるところから一寒村にすぎない水俣には余り興味をもっておらず、川内川(せんだいがわ)河口の鹿児島県米ノ津に工場をつくろうと準備を進めていた。しかし、その話を聞いた水俣の前田永喜が町の有志とはかり、米ノ津との距離の差8kmぶんの電柱を寄付することや、工場敷地を安く提供すること、水俣には梅戸港などの良港があることを力説した結果、野口の気持ちを変えさせたといわれる〈 〉。このような誘致のやり方は、半世紀後の、戦後の高度経済成長期に新産業都市として全国各地で繰り広げられた工業誘致の原型となるものであった。
 また、野口がなぜこの一帯でカーバイド工場を作ろうとしたかという理由は、カーバイドは生石灰とコークスを電気炉で熱して造るのだが、不知火海一帯は良質な石灰石の産地であり、対岸の天草も無煙炭の産地で、それを天然の良港水俣に運べば良いし、中央から遠いかわりに低賃金の労働者が大勢いるなど、立地の条件は整っていたからであった。

 【日窒の発展と水俣】
 1908(明治41)年8月、水俣に当時の人々が"ガス会社"と呼んだ、カーバイド工場(日産10トン)が水俣川河口の古賀地区に完成し、同年同月、曽木電気とカーバイト商会は合併し、社名を「日本窒素肥料株式会社」と改め、本店を大阪に置き水俣でのカーバイド製造に着手した。
 この社名には食糧増産に貢献する国家的事業に、日本ではじめて携わるという自負の表れがみてとれるが、実際に日窒は食糧増産に貢献し、日本でも有数の会社へと育っていく。
 はじめての工場に水俣村の空気も一変して外来者の増加と物資の交流が急増し、水俣川は常時これらの出船入船で賑わい、全村活気を呈し、翌1909(明治42年11月)には石灰窒素工場が完成し、工場の拡張は、村民の生活にも大きな影響を見せ、政治、経済、教育、文化、その他全ての面に覚醒の新風を吹き込んでいった。
 しかし、工場の進出は水俣で全面的に受け入れられたわけではなかった。とくに地主など村の有力な人間にとっては好ましく思ってなかったようである。
 水俣ではこの時代日本の他の地域でも見られたように、「ジゴロ(地五郎)」と「ナガレ(流れ)またはナグレ(零落)」〈 〉など、地域の居住歴や土地の所有の有無、貢献度などをあらわす差別的な言葉などもあり、地域内における差別の構造があったが(この点については鶴見和子などにより詳しく調査されている〈 〉)、その支配的な地位を占めていた地主たちは、本能的に近代的な資本が自分たちの半封建的な民衆支配の聖域を侵し、その優位を覆すことを感じ、反発していたようである。水俣の一般住民たちにとっても大正の中頃までは、工場の工員は愚弄の対象であったようであり、工場設立を歓迎したのは天草などからの「ナガレ」といわれる、他地域からはいってきた人たちであったが工場の労働は楽なものではなかったようなものである。
 石牟礼道子の『苦海浄土』〈 〉のなかで「ほらほら、会社ゆきどんが、今日もクウズクワズ(食うず食わず)ちて靴の音立ててゆきよるがね。会社勧進、道官員(会社の中では乞食のように汚く、帰りの道では官員のように綺麗)。」とそんな歌までがはやったと描かれているが、実際工員はカーバイドの粉塵で手足や肺はぼろぼろになるような悪条件のなかでの1日12時間の重労働でありながら、一般の人夫賃より低賃金であり、途中でやめるものも多く、工場はいつも人手不足で、募集係は天草から鹿児島の出水、川内方面まで人を集めにいっていたという状況があり、また大正7年当時、工員の初任給が日給40銭のとき、大学出の社員は45円とっており社宅などにも大きな差があり工場内での差別も厳然と存在していたという〈 〉。
 ともかく、会社設立に対する受け止め方は、最初から歓迎した天草流れのような人々と、地主たち、一般の住民とでは三種三様であったようである。だが、資本金100万円という当時の価値で時価数百億円にも匹敵する日窒は、水俣に与えた影響は計り知れないものがあったことは間違いない。しかし、町勢をかえた日窒水俣工場の運営も、当初から決して順調といえるものではなかった。
 野口は1909(明治41)年2月にはドイツに赴き、アドルフ・フランク、ニコデム・カローが発明したカーバイドを原料とした石灰窒素の特許権を買収し、水俣に石灰窒素工場を建設するが、この工業化の過程が困難であった。この技術は、カーバイド(炭化カルシウム)を原料とし、これを熱して空気中の窒素を吸収、固定させ、いったん石灰窒素にし、それに水を加えるとアンモニアが出てくるというものであり、この石灰窒素肥料は、未来の農業用肥料に大きな展望を開くものであり、野口はこの技術を三井の益田孝男や古河の代理の原敬と張りあり、シーメンスの協力などを得て手に入れたといわれ〈 〉、野口の当初の意図は、石灰窒素をそのまま窒素肥料として製造販売することであった。
 しかし、この技術を用い製造を開始した結果、18%あるべき含有窒素がわずかに10%程度しかなく、加えて、はじめて聞く新製品で販売業績も伸びず、農家ではせっかく買っても使用法がわからず、作物を枯らして苦情を持ちこむ例が多く、仕方なく硫安に変成して売るために硫安工場を大阪の稗島に建設している。(硫安は石灰窒素を水蒸気で分解して得たアンモニアに硫酸を作用させて作る)
 また、新潟県姫川に発電事業を起こし、同県西頸城郡青海村に肥料工場を建設するなど、次々に事業は拡張されたが肝心の石灰窒素はできず一大危機に陥るが、野口自ら水俣に乗り込み、必死の努力を傾注してこの難関を突破し、ようやく製品を送り出すようになり、これが日本における空中窒素固定事業の第一歩となった。
 当時は堆肥、魚肥と並んで重要な肥料源であった大陸の豆粕が戦争で中断されることが多く、新しい肥料の開拓が求められていたであったので、この石灰窒素肥料の実用は日窒に大きな収益を与え、資本金も1910(明治43)年9月に200万円へ、明治45年3月には400万円に増額し〈 〉、カーバイドの利益によって漸く経営を保っていた状態から抜け出した。
 また、第1次世界大戦による国内産業界の異常な好景気により鈴木商店、久原鉱業など戦争成金が出現するころには、日窒でも拡張が相次ぐ。大正5年に1トン200円もしなかった国内の硫安相場が翌年には306円、大戦末期の大正7年には410円まで跳ね上がり、8年から9年上期まで380円を持続するような状況にともない、日窒の利益も著しく増大し、利益配当は大正6年には2割5分、7、8年には3割配当をおこない、年200万円以上の償却を行っている。大正9年の上期には10割4分の配当をおこない、同年3月には2,300万円の増資を実施するとともに、従業員にも功労株の配分や特別賞与金が至急され、9年の上期には半期間で資本金の全額を儲けたという狂気じみた利益を得た時代であった〈 〉。
 水俣も工場の立地拡張にともない人口が増え、1912(大正1)年1月、町制がしかれたときの人口は17,000人をこえ、大正7年にはおよそ19,000人、大正10年には二万人を突破し、道路の新設、教育の充実、電話の開通など町の形態も近代化し、県南屈指の町として各方面から注目を集めるようになり、拡張拡大化を著しく遂げる日窒はもはや水俣ではなくてはならない存在へと成長していく。
 しかし、このころには石灰窒素からアンモニアを取り出したあとの「黒ドベ(水俣ではヘドロのことをドベと呼ぶ)」と呼ばれる残渣の海への流出や、硫安工場からの硫化鉱石を焼いて砕く際にでる赤い粉塵や酸度の強い排水、カーバイドを砕く際の白い粉塵などが問題となり、水俣漁協組合は「汚悪水及び汚塵に基づく漁場の被害補償」を工場に要求し、工場側は影響の有無と、損害の程度が不明確とし交渉は結論を得ないで終わっているが、当時すでにある程度の環境汚染被害は出ていたようである〈 〉。
 
 【日窒の化学工業会社への転換】
 日窒は世界大戦の恩恵を受けたこともあり硫安の製造などで巨額の利益をあげたが、大戦の終了により硫安は大暴落し、同社の株は好景気時の250円から額面50円を割る状態まで転落するがここで野口は日窒のみならず、日本の化学産業にも大きな影響を及ぼす果断をおこなう。
 それは変成硫安から合成硫安への転換であった。どちらも、窒素系肥料の主流である硫安(硫酸アンモニウム)で、化学的には同一のものだが、製造方法が全く違う。変成硫安は、カーバイド(炭化カルシウム)を原料として石灰窒素をつくり、これを水蒸気で分解して得たアンモニアに硫酸を作用させて作る。しかし、合成硫安は、アンモニアを水素と窒素から文字通り合成してしまう。合成硫安は固定される窒素あたりの消費電力が大幅に少なく、コストを大幅に引き下げることができるものであった。
 この技術を野口は1921(大正10)年、石灰窒素法の特許使用継続の交渉をするためヨーロッパに渡りローマに立ち寄った際、カザレーがアンモニア合成に成功したと聞き実験室を訪れ、カザレー式アンモニア合成特許および施設権一切と機械類を100万円という当時としてはとてつもなく高額の値段で購入契約をし、1923年(大正12年)には、宮崎県延岡に新工場を新設し、合成法硫安の工場生産を開始し、水俣工場でも大正14年工場の拡張建設に着工し、延岡工場の3倍もの製造能力を持つ工場(合成塔1本当たりの生産能力は延岡工場の7,8トンに比べ日産20トンを誇り、アンモニア圧縮機等の能力も当時日本一であった)へと全面的に切り替え、大正15年12月25日最初のアンモニア製造が実を結び〈 〉、日本における一流の化学会社としての地位を確立していくことになった。
 しかし、この技術は成功すれば確かに大きな利益を見こめる将来性のあるものであったが、余りに大きな事業として三井、三菱、住友などの最高首脳は単独では手を出そうとせず、ここに身軽で果断な野口に取得のチャンスがあったのである〈 〉。
 だが、この技術はパイロットプラン程度のものであり、指導者のカザレー博士ですらイタリアで実験装置の操作しか経験がなく、水俣工場における開発に携わった者も高圧工業には全く素人の20歳台の青年技術者たちと工場経験のない工員であり、世界でもはじめての工業化でもあったため、思わぬところで事故が起こり、圧縮機の各部からガスが噴出したり、系統パイプバルブの破裂によってこもっていたガスに引火し、一瞬にして工場の屋根ガラスのほとんどを吹き飛ばしてしまうなど中小多数の事故が起こり、従業員はもとより、町の人々までまかり間違えば町も一瞬にして吹き飛んでしまうのではないかという恐怖の念を抱くようなありさまであり、そのため事故のたびに工員の家族は肉親の安否をきづかって工場正門に殺到してくるので会社は正門を閉鎖してしまい、そのため家族たちは正門をよじ登って"夫を出せ""子供を出せ"と叫んだという〈 〉。
 このような発展のためには危険をかえりみない技術開発や、製品製造はこの当時だけでなく以後も幾度となく行われるが、多くの事故を出しながら完成したこのアンモニア合成技術の成功によって、日窒はたんなる肥料会社という位置を脱し、化学工業会社として歩みはじめることになる。
 これはアンモニアは肥料の原料でもあるが、化学工業の重要基本資材でもあるため、後に日窒はこの技術を活用し、合成アンモニアを出発点に硝酸の合成や、ニトログリセリン、火薬製造、ベンベルグ絹糸などの生産を行っていく。また新技術により不用になったカーバイドを有機化学工業の出発点に役立てようとする研究が開始され、カーバイドからアセチレン、アセトアルデヒドを経て酢酸を合成するという有機合成が水俣工場において、後に初代水俣市長ともなる橋本彦七の手により完成したことも重大な出来事であった。有機合成というのは炭素原子を扱う化学工業で、高度成長の時代に石油化学が主流になるまで、カーバイド・アセチレンを出発点としておこなわれていた。「アセチレンの樹」といわれるように、そこからは様々な製品が造られるのであるが、その一つの幹がアセトアルデヒド・酢酸であり、酢酸は化学工業の重要な中間原料であり、酢酸からその先は、ビニール、医療品、染料、繊維と数多くの化学製品が生み出される。カーバイドを水に入れると発生するアセチレンガスを、触媒水銀を加えた希硫酸に吹き込むとアセトアルデヒドができ、その理論は広く知られ日本でも大正時代から、通産省の工業試験所をはじめ各企業が研究を重ねられてきたが、工業化するための効率的な製造が難しく、ここでもチッソの技術の高さがうかがえる。
 そして1931年に日本で特許がとられたこの酢酸合成法の技術は、水俣工場では1932(昭和7)年に生産を始める。水俣工場では装置を設置した順に一期、二期と呼んだが、1935(昭和10)年までの三年間に四期設備までが稼働し、アセトアルデヒドの生産量は3,600トンを超え、酢酸は全国生産量の50%に達し、さらに2年後には五期設備が加わって、太平洋戦争直前の1940(昭和15)年には、アセトアルデヒド生産量は9,000トンを超え、戦前のピークとなる〈 〉。
 また、1941(昭和16)年、日窒は日本最初の塩化ビニールの製造をはじめる。塩化水素にアセチレンを作用させて、ビニールのモノマー(単量体)にし、さらにそれを重合させてポリマー(重合体)にするもので、研究から成功までに四年かかったが、これが日本で最初の工業化であった。しかし、触媒として水銀の使われた、アセドアルデヒド・酢酸設備、ビニール製造設備からでた廃液は、どちらもほとんど無処理のまま百間排水溝・水俣湾に流され、アセトアルデヒド廃液には水俣病の原因となる有機水銀(メチル水銀)が含まれており、水俣病につながる汚染はこの時期には始まっていたことになる。
また日窒はこの間水力発電にも力を入れており、大正14年に五ヶ瀬川、15年に馬見川、昭和2年には一ツ瀬川、竹の川、三年には頭地など、次々と水力発電所を完成させ、発電所の数を熊本県内に9ヶ所、鹿児島権に3ヶ所、宮崎県に4ヶ所のほか、各地を含めて29ヶ所に完成させ、その出力合計は45万9,775kWにおよび、その後さらに14万8,000kWが建設されるなど拡大を続けていき、国内各地に同系工場を建設するほか朝鮮、満州にも進出し、関係会社は27社を数えるにいたるまでになっていた。

 【日窒の海外進出】
野口の日本窒素が新興コンツェルンとして発展し、内外にその名を知られるようになったのは、朝鮮半島に進出して以降のことであり、ここでは日窒の海外進出を見ていく。
このころの日本の硫安事情は、1年間の消費量は36万2,000トンであったのにたいし、国内での生産量は13万トンに過ぎず〈 〉、その差23万トンは輸入硫安であり、野口は朝鮮の安い水力発電で、安価な硫安を製造することを考え、海外に進出する。
1926(大正15年)には、莫大な費用を投じ赴戦江の水力発電を担当する朝鮮水電(株)が設立され、翌27年、この電力を利用するための朝鮮窒素肥料(株)がスタートした。朝鮮の事業は大規模なもので、北へ流れる赴戦江の水を日本海側へ落として約1,000mの落差を利用した、20万kWの電力を起こす事業、おなじく40kWの電力を起こす長津江開発で、赴戦江、長津江には浜名湖ほどの人造湖がつくられたという〈 〉。
そして、そのような開発を基盤に、興南工場、本宮工場など化学工場郡が建設され、興南工場は戦前におけるチッソの中心工場となっていき、アンモニア合成工場、硫安工場、本宮工場などの工場郡と従業員社宅をあわせた敷地の広さは、約五百数十万坪であり、地方都市ほどの面積があった。そこでは、硫安、硫燐安、硫加燐安などの肥料をはじめ、工業薬品、人造絹糸、火薬、油脂、石炭液化などの事業が興され、それにともない朝鮮窒素肥料、長津江水電をはじめとし、朝鮮送電、朝鮮石炭工業、日窒鉱業、朝鮮窒素火薬、朝鮮石油、東洋水銀鉱業などの会社が設立され、日窒は新興財閥・日窒コンツェルンを形成していき、日本式アルミニウムの製造で知られる森矗昶の森コンツェルン、電解ソーダ工業を中心とする日曹コンツェルン、満州重工業で知られる鮎川義介の日産コンツェルンとともに昭和財閥と呼ばれるようになる。
 また、1920年代から30年代、日本窒素は大規模水力発電所を基盤とした電気化学コンビナートを朝鮮の興南に作ったのをはじめ、華北、台湾の窒素肥料工場、スマトラのトバ湖発電所、ジャワの電解ソーダ工場、シンガポールの油脂事業など各地に進展し、発展につぐ発展で、戦前の日本を代表する化学資本となっていった。その技術研究は主として水俣工場で行われ、とくに1932年、アセチレンからアセトアルデヒドの合成と、1941年の塩化ビニルの合成はどちらも水銀を触媒として使用する日本最初の工業化であり、戦後の日本窒素の再生を用意した重要な技術となった。
この間の日本窒素の利益について「純利益で見た最大50社のランキングの変化」〈 〉で見てみると、1929年下期は245万5千円で50社中41位に位置しており、日本の経済界の中で大きな位置を占めていることがわかる。
また、1931年には天皇が陸軍特別大演習統監のため熊本に来た際、日窒水俣工場を訪れるなど、日窒は名実ともに日本を代表する化学企業と認められ、また天皇の工場視察は水俣に住む住民にとっても大きな出来事であった。そして、この当時の日窒の意識をあらわすものとして1940年に作られた「日本窒素肥料株式会社事業概要」に以下のような文があったという。
「聖戦下の我国に取って世界屈指の大化学会社『日本窒素』の存在することは、その著しき強みであることは云うまでもない。…もとより『日本窒素』の如き大工場設備は如何に政府の力を以てしても、戦争が始まったからと云って一朝一夕につくる事は出来ない。仮に建物や機械が出来たとしても之に生命を与ふべき技術経験等の人的資源は之を如何ともすることが出来ない。聖戦下に於ける『日本窒素』はいまや一営利会社として之を見るべきでなく、一大総合化学国策会社と云ふべきであろう。」〈 〉
 九州の片隅から始まった一個人の事業が日本有数の事業となり、小さな漁村に過ぎなかった水俣もまた、工場の発展とともに人口数万の地方中心に発展し、典型的な企業城下町となっていった。しかし、がむしゃらに会社をひっぱってきた野口は、脳溢血で倒れ四年におよぶ療養ののち1944(昭和19)年、敗戦による日窒コンツェルンの崩壊を見ずに死去している。

 【第二次世界大戦後のチッソの再興】
 第二次世界大戦の敗戦により、日本は一切の植民地を失ったが、日窒もまた朝鮮、満州、台湾、海南島など、資産の80%に及ぶ海外資産を失い、国内にあった水俣工場も延岡工場も空爆で破壊された。とくに軍の指定工場であった水俣工場は1945年3月から8月にかけて五回にわたる爆撃による戦災に遭い屋根のある工場は1ヶ所もない惨状を呈していたという〈 〉。
そのうえ戦後の財閥解体により延岡工場(日窒化学工業)は日窒から切り離され、旭化成工業として独立していくなど、輝ける日窒コンツェルンの栄光を失った日窒に残されたのは、結局破壊された水俣工場と、出力合計わずか7万kW程度の11ヶ所の小規模な発電所だけであり、海外からは多くの日窒関連の引上げ者が帰国し始め、その数は興南からだけでも約三万人が約三年をかけて帰ってきた〈 〉。また日窒を強力に引っ張りつづけてきた野口は1944年死亡していた。
しかし、終戦後わずか2ヶ月後の1945年10月には、日本窒素は、アンモニア合成と硫安の生産を再開している。1949(昭和24年)には、塩化ビニルの生産も再開し、合成化学企業の復興に動き始め、化学肥料の生産開始以降、日本窒素はその蓄積した技術力によって再び日本化学工業の先頭に立っていく。
とくに塩化ビニル樹脂の合成の経験と、その加工に必要な可塑剤の市場独占は、同業各社の中で好況、不況に関わらず常に水俣工場だけがフル生産が可能であり、価格面でも有利に立つ創業者利益をもたらした。また戦後復興期による食糧確保が重視され、とくに硫安に対して多額の財政資金設備投資が行われたことも日窒には幸いした。
水俣も1949(昭和24)年4月1日市制が施行され、人口も4万2,000人をこえ、会社のおかげで町が市になり、駅には特急も止まるようになるといわれ、翌年には初の水俣市長として新日窒労働組合が担ぎ出した元水俣工場長の橋元彦七が当選している。
しかし、在外資産喪失による損害が極めて大きかったため、1950年(昭和25年)1月、企業再建整備法にもとづき、日本窒素を解散し、水俣工場を中心とする同社の現有稼働資産の一切を継承する第二の会社として、資本金四億円の「新日本窒素肥料株式会社」が設立され新たなスタートをきった。
 そしてこの当時、新日本窒素水俣工場にとって朝鮮戦争が大きくプラスに作用した。
再発足した新日本窒素肥料株式会社は、「天の恵み、神の恩寵」と称した朝鮮戦争の勃発(1950年)によって急成長を続け、莫大な利益をつかみ、5年間で資本金を12億円と3倍化した。また、1952年には水俣工場で新製品・オクタノールの生産が始まるが、オクタノール(オクチルアルコール)は、炭素が八個つながった高級アルコールで、それから可塑剤・DOP(ジ・オクチル・フタレート)が作られ、可塑剤・DOPは、塩化ビニルを農業用ビニールシートのような軟らかい製品に加工するとき、必ず混ぜなければならないものであったが、オクタノールは製造が困難で、日本国内では天然の椰子油(花王石鹸)や糖蜜(協和醗酵)から少しずつ合成されていて、足りない分は輸入に頼るしかなかったため、この技術の成功によってチッソは以後10年にわたって国内のオクタノール市場をほぼ独占することになる。塩化ビニルの需要が増大していたから、可塑剤・DOPも必要で、その中間原料・オクタノールはいくらあっても足りない状態であった。オクタノールを増産するためには、その原料アセトアルデヒドを増産しなければならず、水俣工場はアセトアルデヒドを増産させていく。(アセトアルデヒド→オクタノール→可塑剤・DOP)。
このような時代の追い風と技術の開発により、第二次大戦によって総資産の8割を失ったものの、日窒・新日窒は1950年代には日本を代表する化学企業として再び注目を受け、工業化を急ぐ日本にとっても保護すべき重要な生産力となっていった。そして投資をつづけ、塩化ビニルやアセトアルデヒド・合成酢酸の新工場を次々と稼働させて、生産を倍々ゲームの勢いで急伸させていったのである。

2、チッソの負の側面と水俣の悲劇

【チッソの負の側面】
 ここではチッソの負の側面と水俣に与えた影響について見てみたい。
 1908(明治41)年に水俣に進出してきたチッソは、その後先進的な技術を次々に導入し時代の追い風を受けることで、半世紀あまりというわずかな期間で日本の化学産業を代表する企業にまで育っていき、水俣もチッソの企業城下町として発展し、雇用の増大や税収の増大など、経済の面やその他様々な面において企業城下町の恩恵を受け、「日窒あっての水俣」という神話が形成され、行政や住民のなかでチッソの存在は大きくなっていった。
 それは、元工場長であった橋本彦七が1950(昭和25)年から、54年、62年、66年の都合四期、16年間市長を務めたことや、市議会にもチッソ関係者が多く就いていたことが示すように、チッソと水俣との関係性は、雇用、税収入といった経済的な面だけでなく、水俣の政策にも深く関与していった。
 しかし、そこにはチッソが与えた経済的・物的な豊かさなどとは反対に、負の側面ともいえる様々な問題をうんだことも事実であり、また、一度地域支配が完成すると日窒は人々が思うほど町に貢献をしなくなったことも忘れてはならない。
 たとえば1956(昭和31、水俣病公式発見の年)年以降14年間のチッソの総設資額は、600億円弱の巨額に上るが、その90%が石油化学を中心とする千葉の五井工場など県外の新工場にあてられ、その間水俣工場から持ち出された利益は400億円にも達すると見られ〈 〉、またチッソの納税額が市税収入の半分近くを占めていた1960年までの短い期間以降はチッソの比率は急減していく。しかし、水俣市は工場拡張のために敷地を買収しチッソに贈ったり、百間港の改修工事の分担金を肩代わりしており、カーバイド部門で発生する廃棄物による公有水面埋立てによる土地の拡大についても、答申を求められた市議会が「会社の発展にもなることだし、ひいては水俣市の発展・繁栄につらなる」と答えるなど〈 〉、チッソの神話だけが一人歩きし、「チッソあっての水俣」という神話が長く水俣を支配することになり、そういった背景のもとで、会社にたてつくものは市民にたてつくものであり、会社に不利益をもたらすものは水俣市民に対する反社会的行為であるという風潮が高まっていくことになった。
このようななかで、チッソの企業活動のまえには、大気や水質といった環境問題などの負の側面は軽視され、そのような背景のもとで世界にも衝撃を与えることになった水俣病が発生し、現代に続く、云い尽くせないほどの悲劇が生まれることになる。
 しかし、水俣病が発生するまでにもチッソの負の側面ともいえる問題はあり、それを踏まえねば水俣病の全体像は見えにくく、また、チッソの発展の前に犠牲されたものをみることで水俣病に続く問題もみえてくる。特に、水俣病にもつながる問題としての大きなものとして、人権の軽視、環境の軽視があったが、以下詳しく見ていくことにする。

 【人権の軽視と差別】
 人権の軽視または差別についてみてみると、チッソが新興コンツェルンとして認められた朝鮮進出に際しては、日本の植民地支配を進めるための工業化政策に率先して行ったものであり、朝鮮への進出は総督府や軍部と一体となったものであった。
興南工場の土地の買収に際しては、「警官立会い」のもとに土地を取得し工場をつくり、また憲兵も立ち会ったとの記録もあり、それから想像すると土地の買収は、きわめて強制的なものであったと考えられる〈 〉。また、「職工は牛・馬と思って使え」という朝鮮窒素の管理構造がうちたてられ、その管理構造は敗戦に際し水俣に持ち帰られることになった。朝鮮人への差別は当然ひどく、興南工場での朝鮮人の賃金についてみると、朝鮮人の賃金は日本人の三分の一以下であり、日本人の小卒の初任給が昭和6年ごろ1円45銭だったとき、朝鮮人は50〜60銭であり、住居も日本人がスチーム暖房つきレンガ造りであるのに対し、朝鮮人はオンドルつきのバラック住宅で、朝鮮人労働者を「おい、こら、よぼというような表現で呼」び、朝鮮人を殴らないような日本人労働者は「あれは朝鮮人を使いきらん」とマイナスの評価を受け、朝鮮人労働者がどうしても言うことをきかなければすぐクビにできたという〈 〉。
 しかし、これは植民地であった朝鮮だけに限ったことではなく水俣工場においても、社員と工員という人間差別が存在していた。
 社員は本社雇いで大卒・高専卒、工員は地元採用で高小卒、または水俣実務学校卒であり、その中間に普通工業及び中学卒の準社員というのがあり、工員は30〜40年勤めてやっと準社員になれたという。本社雇いは他所者で陣内地区の社宅に住み、社員食堂が利用でき、銀のバッジをつけ、月給制でボーナスは3〜4ヶ月分、これに対し準社員がボーナス1ヶ月半分、工員は1953(昭和28)年まで日給制、ボーナスは日給5日分程度で弁当持参であり、バッジもやや大きめの鉛かなにかでできたものだったという。その後、1953(昭和28)年10月に、身分制撤廃闘争が起こり、呼び名を社員に統一すること、月給制にすること、工員は50歳であった停年を一律55歳とすることが要求されたが、社員は技術員・事務員となり、工員は技能員と呼び方が変わっただけで依然として差別はなくならなかった。この社員・工員の差は、水俣という地域社会の中でも影響を持っており、そのまま社会的序列となり、子供にまでその影響を与えていた。学校では先生が社員の子供とそうでない子供を区別したり、病院で他の患者が待っていても社員の妻は先に診てもらい、また社員の妻たちは工員をごく当然のごとく私用に使い、工員もまたそれにおもねたという〈 〉。
 しかし、このように工場内で差別される工員も、チッソがまちにとってかけがえのないものになり、他に重要な雇用機会もなかった水俣では"会社ゆきどん"として、大変に特権的な地位と考えられた。当然、チッソに入社することは水俣では、名誉なことであり次のように喜んだという。
「チッソに入社したときのうれしさうれしさ、あげんこつはあとさきを考えても他になか。そら何十倍ちゅう競争率だったもんね。も、部落じゅうの祝い。うちん親父のな、おるにいうたもん、これからは名誉ある会社ゆきじゃっで、すべてに気をつけんばいかんぞち〈 〉(チッソに入社したときの嬉しいこと嬉しいこと、あんなことは後先を考えても他にない。
何十倍という競争率だったからね。部落中で祝われたよ。うちの親父が俺に言ったよ。これからは名誉ある会社通いなんだから全てに気をつけねばいけないと)」
 そして、工場内で差別されていた工員は、今度は農民や漁民を差別したという。それは工業化の過程において労働者が近代化の担い手としての自負によるものがあったのかもしれないが、差別されたものがさらにその足元に新しい差別を作っていく差別の転嫁作用であったとも考えられる。
 また、旧財閥の鉱山のような資源を持たないチッソは、技術革新の先頭をゆくことで、財閥に対抗し得たし、利潤を得ることが可能であり、実際チッソは世界の最新の技術を導入し、工業化を行うことで会社を大きくしていった。だが、最新の技術の導入はリスクがあり、まして工業化も確立していない技術を導入することは爆発などの様々な危険を伴うものであった。しかも、チッソは一つの技術が生産化されるには実験を繰り返し、パイロットプランを経て慎重に本生産されるべきところを、いきなり本工場を作り、運転しながら部分的に改造、実験しながら生産を軌道にのせていく方式をとるなど、ある意味、安全性を無視したイチかバチかの技術開発によって、日本でもトップレベルの技術水準を保っていたのだった。
 当然事故は多く、1920(大正10)年のカザレー式アンモニア合成法の導入などの際から事故は頻発していたが、それは敗戦の後も変わらず、むしろ植民地での差別の形態が水俣にも引き継がれたぶん悪化したようであり、そこでは生産最優先が全てを支配していた。
 例えばモノマーガスが充満して引火性が強いため、自動車さえエンジンを止めていた火気厳禁の区域内に1000℃に及ぶバーナー室があり、それを移動させて欲しいという労働者の要請があったにもかかわらず、改造期間中に生産停止になることを惜しんで拒否され、その結果爆発が起こり4人が死亡した際も、その責任に対し、末端の職制は減給になっても課長は部次長に昇格しており、末端だけが責任をとらされている。また他の職場でも、酢酸工場では口を覆っているタオルが1日でばらばらになるほどで、タバコをポケットに入れて10分間ほど現場を一周する間に変色するという状態でありながら、「人間でできることなら人間にさせなさい…… 一銭五厘のはがきで何十人も何百人も寄ってくるじゃないか」という態度であったという。しかも、事故が起きたときの対応がまた非人間的であった。カーバイド工場で火災が起き消火にあたってけがをした緒方新蔵さんの場合には、課長ははじめ公傷にするから自宅で休めといっていたが、やがて公傷にすると基準局がうるさいので年次有給休暇で我慢しろといい、年休をとるのがいやで包帯を大きくまいて働きに出たら、人目につくから控所に隠れていろといわれたという〈 〉。
 また、水俣工場の主な引火爆発性ガス及び液体は、水素ガス、アセチレン、アンモニア、酢酸エチル、アセトン、塩化ビニールモノマー、酢酸ビニールモノマー、アセトアルデヒドなどで、それが電解、合成、塩ビ、オクタノール、アセチレン、アルデヒド、酢ビ、硫安、硝酸、酢エ、アセトン、酢酸人絹、スフ、塩ビモノマー、ニポリット、ビニレック、酢酸、無酢などの各工場で製造または使用されていたというから、水俣工場全体が火薬庫みたいなものであり、しかも事故の予防も事故後の救済もきちんと行われないという状況下で工場は操業されていたのである。
 1957(昭和32)年の7月10日号の水俣工場新聞は、水俣工場の状況の一端を次ぎのように披露している。「建設工事が大体終わった二月から試運転=製造に移った加里(カリ)現場はこの世の地獄そのものであった。塩化加里、硫酸加里の粉塵はたつ、塩酸ガスは漏洩する、機械は順調に動かない。このような悪条件のもとで生産意欲に燃えて働く作業員には頭が下がる。しかし、作業員の涙ぐましい努力と担当者の作業環境改善の熱意によって、今日では、未だ不充分であるが著しく改善された。たとえ天国とはゆかないまでも普通の工場なみに万難を排しても、必ずしようと全員で励んでいるのが現状である」〈 〉。
このような状況であるので労働災害も多く、原田正純氏よると、労働災害件数、及び労働者1000人に対する災害件数の率(カッコ内)は公表されているものだけで、1950年には660件(150.5)、1951年には612件(143.2)、ピークとなった1953年には556件(176.3)で、この年は労働者の六人に一人が労働災害をこうむったことになり、労働者への安全対策はきわめてずさんだったことがうかがえる。また、1960年からの約十年間だけみてみても、事故により1953年に1人、1957年に2人、61年には7人が亡くなくなる死亡事故がおきている。事故ばかりだけでなく、喉の痛み、皮膚のかぶれ、頭痛、吐気など労働者には多くの自覚症状もみられたが、大きな労働災害以外は届けられることもなく無視され、ガスによる炎症の血痰さえ、結核の私病として会社を辞めさせられようとしたという。
しかし、このような状況下においても労働者は、ガスや毒物による健康被害などについては、他に雇用の少ない水俣においては、クビになることを怖れて申告しなかったし、またチッソに勤めているという誇りが申告に至らせなかった。
 工場内がそのような状況であるから当然、環境に対しての配慮もおこなわれなかった。その結果、大気汚染や、土壌汚染、そして問題の海洋汚染をおこすことになるのである。

 【環境の軽視と水俣病】
 チッソは高い技術力と先進的な技術の導入によって、戦前、戦後を通じ日本の化学分野でのトップレベルの地位を占め、石灰窒素、アセトアルデヒド、酢酸、塩化ビニル、オクタノールなど多岐にわたる製品を生み出してきた。このような製品は日本の近代化と物的豊かさに大きく貢献するものであり、また、それは私たち消費者の生活を物的に豊かにし、便利さを与えることにもつながっていた。
 しかし、その反面で環境の破壊という深刻な問題も生みだしており、とくにチッソのような化学工場ではその排出物は常に問題になっており、ここではチッソが環境へどのような影響を与えたかをみていく。
 チッソによる環境破壊はかなり古くから行われていた。海の汚染では1925(大正14)年ごろには問題化していたようで、当時すでに漁業組合から補償要求が出されている。
 このころの汚染は石灰窒素からアンモニアを取り出したあとの「黒ドベ(水俣ではヘドロのことをドベと呼ぶ)」と呼ばれる残渣の海への流出や、硫安工場からの硫化鉱石を焼いて砕く際にでる赤い粉塵や酸度の強い排水、カーバイドを砕く際の白い粉塵などが、海を汚染したり、堆積することにより船の出入りや魚網を妨げることが、問題となっていたようである。このときチッソは「今後、永久に苦情を申出ない」ことを条件に1926(大正15)年、水俣漁業組合に見舞金1,500円を支払っているが、1943(昭和18)年になると漁業補償問題は再燃している。
このときは「将来、永久に一切の損害補償を主張しない。又工場より産出するカーバイド残渣は、将来旧水俣川流域方面に廃棄放流する」ことが条件とされ、15万2,500円が漁協に支払われているが、「今後、永久に苦情を申出ない」という約20年前のとりかわしがあったのに、会社が交渉に応じたのは被害の補償というよりはカーバイドの残渣捨て場を獲得する意向が強かったためであった。また、このときの契約書に当時のチッソの姿勢がうかがえる。
「(水俣町漁協共同組合)は右漁場において将来永久に一切の損害補償を主張せざるは勿論、水俣工場が平時戦時を問わず国家の存立上最も重要なる地位にあること並に水俣町の繁栄の為に重要性あることを認識し其経営に支障を及ぼさざる様協力すべきものとす。」
 こうして、それまでことわりなしに行われていた水俣川尻への残渣投棄は町の反映という大義名分のもと公然のものとなり、漁民は苦情が言えないことになった。しかし、当時の漁業被害による漁獲高の減少を見ると著しいものがあり水俣の中心となっていたチッソに、これだけの要求をしたということは、漁民達の危機感は相当のものがあったと考えられる。(漁獲量の変化については次頁表1‐1参照)
 また、戦後の1949(昭和24)年に水俣市漁業協同組合の設立により旧組合は解散し、新組合が設立されるや漁業被害の問題は再度発生し、補償交渉では何の結論も出ないまま、問題は立ち消えになっているが、このころ漁民達は、各工場の間を縦横に走り最後に工場の外側を取り巻く百間排水溝から百間港に流れこむ工場排水口に船をつなぐと、船底に舟虫や貝がつかなくなり、いけすの魚も百間港の水がまじると死ぬという事実に気付いていたが、会社側は「化学的でない、資料に乏しい」として相手にしなかった。
1954(昭和29)年には、チッソ側から水俣工場が漁協共同組合に、水俣川川尻の松の元、築地の地先海面を埋め立てさせて欲しいと申し入れを行っているが、これは三年前から残渣をおくりこんでいた水俣川河口の捨場がすでに一杯になっており、残渣捨場を広げる必要に追われていたからであった。
しかし、漁業被害に耐えかねていた漁民達は補償を要求するよい機会と思えたので交渉に及び、結局、水俣工場と漁協は、毎年40万円の補償金で排水・廃棄物の排出を認める契約を取り交わすが、このときも会社側は工場汚悪水や残渣により漁業被害が起こっていたことを知りつつも、「漁協は今後被害補償その他どんな要求も一切会社に対して行わないことを約束する」という一文を含む契約を取り交わしており〈 〉、よくよくチッソは被害、苦情を申し出ないということを条件に契約を結んでおり、これは、水俣病に関しても同様の態度がみられることになる。
また、カーバイド工場や1957(昭和32)年にできたカリ変成工場から無処理で排出される有害な煤煙やおびただしい粉塵もまた、周辺の農作物を枯らし、近隣住民の健康、住宅に多大なる損害を与えていた。例えば、道を歩いていても目を開けられない場所があったり、近隣の家のなかには瓦の隙間や板の隙間から粉塵が入りこみ、天井裏から肥料袋二杯のカーバイド粉塵が出たという家もあり、また、カリ変成工場ができてからは、植物が枯れ、鳥が苦しみ、子供達も苦しむなど毒ガスの中での生活のようであったという〈 〉。しかし、このような状況において市役所や市議会は会社に警告を発したり、告発したりするという強い処置をとることはなかった。
1956(昭和31)年に、水俣市は「健康福祉都市建設三ヵ年計画」なるものを発足させてはいるが、これはなんら実行性のあるものではなく、被害の改善は見られなかった。
 その背景としては、当時、新日窒はあらゆる点で水俣の行政を完全に支配しており、このときの市長は戦前の水俣工場長であった橋元彦七であり、市議会で多数を占める会社系の議員と4,000人という新日窒労組に支援され安定した権力を行使しており、橋元市長の施策方針は、水俣市の繁栄は新日窒の発展を通じてはかるというものであったため、新日窒の生産の拡大を阻むような規制措置など考えられなかったのである。
 また、同時期の1955(昭和30)年に、一党支配体制を確立した自民党は、通産省と連係して技術革新を進めていくが、その技術革新の中心的課題は、国際的な石油メジャーの圧力のもとに、化学工業を従来の電気化学から石油化学に切り換える「石油化」にあり、電気化学で優勢を誇っていたため、第一期の石油化計画に乗り遅れて焦燥感を抱いたチッソは、丸善石油と提携して千葉県五井に石油化学の立地を進めていくことになるが、これも水俣での環境被害を増大させることになった。
 当時、塩化ビニルの急速な需要増に比例して原料のオクタノールの増産が必要とされ、アセトアルデヒドからのオクタノールの製造は、ほとんどチッソが独占していたため、石油化学方式によるオクタノール生産が軌道に乗るまで、チッソは増大しつづける需要にこたえアセトアルデヒドを増産する役割を担い、通産省もそれを支援していたからである。
 結果、石油化への転身の過程のスクラップ・アンド・ビルドのなかで、水俣工場は使い捨ての最後のフル回転の様相を見せ、適切な浄化装置の設置などは見られず、またアセトアルデヒド製造に際しての助触媒を、1951年からマンガンから安価で粗悪な鉄系の素材を用いるようになったため、排水の質は悪化し、環境の被害は急激に悪化していき、そしてこの助触媒の変化が水俣病患者を多く生み出す原因となった。
 しかし、このような環境の悪化や被害については先に見たとおり市もさることながら、国の対応も期待することは難しい状況であり実際有効な対策は見られなかった。乱暴な言い方をすれば、当時の国や行政の姿勢は、チッソの操業の過程で環境への被害がある程度あらわれても、国が豊かになる前には黙認すべきものであるという意識があったということができる。
 そして、経済成長に沸き立ち、先進国に追いつき追い越せと提唱した生産カナショナリズムと言うべき当時の政治は、大量生産・大量廃棄・大量消費のシステムを急速に制度化し、耐久消費財を満載した物的・経済的に「豊かな社会」、及び快適で便利な都市型の生活を作り出していくが、他方では公害事件にみられるような人間破壊、環境破壊、そして社会破壊を生み出していき、その結果水俣では水俣病が発生することになった。

 【水俣病の発生】
 チッソによる環境被害はかなり古くから発生していたが、1950(昭和25)年前後からの水俣湾での海の異変はそれまでの被害とは違う形を見せ始めていた。
それまでの漁業被害は、カーバイド残渣など固形物によるもので、海底が埋まって、魚貝の生息・産卵がさまたげられたり漁ができなくなったりするものであったが、1950年前後からの汚染は、魚がふらふらと弱り白い腹を見せて浮きあがり、手で拾えるようになったり、貝が殻を開けて腐臭を放ち、海藻もつきにくくなるというものであった。それは、いっとき自然の回復力が見えたように思えても、また同じような現象が起こり、次第にその間隔は狭くなっていき、それにともないボラ漁、エビ漁、イワシ漁などの漁獲も減っていった。また、それは魚介類に限ったものではなく、1953(昭和28)年頃には、水俣湾に沿った村々で猫、鳥、豚など陸上の動物にも異変が見られるようになった。
熊本県が1957(昭和32)年4月にまとめた報告書「熊本県水俣地方に発生した原因不明の中枢神経系疾患について」には、「調査によると猫の発病は昭和二十七年頃からと見られている。猫は発病すると食欲がなくなって元気を失い静かにしているが、発作を起こすとキリキリ回転したり、無茶苦茶に走りまわり、その結果海岸では海に落ちこんで死ぬ猫が多い」とある〈 〉。猫は海ばかりではなく、燃えるかまどに飛びこむ例もあるなど奇怪なありさまだったが、はじめは「猫が舞いよるが」などと面白がって見ている人々もいた。しかし、そのような奇怪な出来事が多くなるにつれ、猫の奇病、猫踊り病などと呼んで気味悪がるようになる。
1954(昭和29)年には、水俣湾に接する茂道などの地域で100匹あまりの猫がほとんど狂い死にし、他の地区からもらってきた猫も同様に死んでしまったため、ネズミが急増し、魚網などが食い荒らされる被害が増加し、困った漁民は市の衛生課にネズミの駆除を申しいれており、8月1日の熊本日日新聞には「猫てんかんで全滅、ねずみの急増に悲鳴」と報じられている〈 〉。また、飼っていた豚や犬も猫と同じように死んだ家もあり、海鳥やカラスが飛べないでいるという話も聞かれ始めた。そして、それはやがて人間にも同じような症状が現れることになる。
 まだ敗戦から10年もたたないころである。当時、病名のつけられない病気は決して珍しくなく水俣病も当初は、初期に患者が発生したのが月浦という部落に多かったため、「月浦病」といったり、「猫踊り病」といったり、酔っ払ったようにして歩くので「ヨイヨイ病」と呼ばれたり、見たこともない病気だったため「ハイカラ病」などと呼ばれていたが、水俣の漁村地帯で散発し始めたこの病は明らかに異常であった。(水俣病とは当初からマスコミは使っていたが、はじめて学術誌のなかで使われたのは、1957年のことであり、新聞紙上では1958(昭和33)年からほぼ各新聞社がいっせいに使っている)
 1956(昭和31)年4月、新日本窒素肥料株式会社水俣工場付属病院に「狂躁状態を呈した」五歳の幼女、田中静子がかつぎこまれる。
 静子の運ばれた、新日窒の付属病院は水俣工場の近く市街地の中心部にあり、水俣で最も施設・スタッフがととのった病院であり、市民は親しみを込めて「会社病院」とよび、また、水俣市立病院はできて日が浅く、総合病院としての機能はまだ十分ではなかったため、新日窒付属病院が当時事実上の地域医療の中心であった。
 そして、田中静子がかつぎこまれた8日後には、同様の症状で三歳の妹の実子も来院し、また、他にも似たような症状の患者が多発するに及び、付属病院の院長の細川一博士は未曾有の疾患発生に気付くことになる。 
 そのころ、田中姉妹と同様の症状をあらわす多数の患者たちは、手足のしびれ、歩行不能、握力減弱、発語障害、視野狭窄、四肢の腱反射亢進などの症状がみられ、死に至る場合もあったが、水俣市内の開業医達も来院する患者の症状の原因はわからず、医者達は肺炎、脳障害などと診断したりしており〈 〉、医者たちにとっても難解な症状であった。
 付属病院に運ばれた田中静子の症状をみてみると、静子は病院に運ばれるまでは妹の実子とカキ打ちなどをして元気に遊ぶような子供であったが、1956(昭和31)年の4月11日、夕食時にご飯や皿を落とすようになり、家人に怒られたりしたが、翌朝には足がもつれしゃべれなくなり、四日目には、視覚に障害をきたすようなり、うまく手で靴など履けなくなり〈 〉入院にいたるのであるが、かなりの短い期間で急激に病気が進行したことがうかがえる。そして後に、熊本地方裁判所で下された判決のなかではその症状は次のように述べられている。
 −同月17日には発語障害、嚥下障害、視力障害が出現し、漸次睡眠障害も強くなって狂躁状態を呈するようになり、同月19日には嘔吐が頻発し、同月23日にチッソ水俣工場附属病院に入院した。しかし、その後も症状は悪化し、四肢の運動障害の増悪、上下肢の腱反射亢進、全身の強直性痙攣発作の頻発、上下肢の著明な筋強直、瞳孔の散大と反射消失、上下肢の屈曲変形、尖足などの症状が認められた−これが、チッソ水俣工場附属病院長細川博士に保健所に報告することを決意させた症状の発現であった。
 そして静子の症状は進行していくがそれは次のように述べられている。
 −同年7月末から一ケ月間白浜の伝染病隔離病棟に収容されたのち、同年8月30日熊大小児科に入院した。その際の主要所見として、強度の言語・歩行・視力・聴力・意識・嚥下の各障害、筋緊張および腱反射の亢進、強直性痙攣、麻痺、失禁、流涎、発汗、散瞳などの症状が認められ、運動失調、視野狭窄などについては検査不能の状態であった。その後も、……屡々、不眠、狂躁状態を呈し、各種の薬物による治療が試みられたが、その臨床症状については改善はみられなかった。昭和34年1月1日午後高熱を発し、呼吸困難に陥り、全身衰弱して、遂に翌2日嚥下性肺炎のため死亡するに至った−とあり、このような症状は他の患者にも同様に見られるものであった。
 水俣病は、チッソのアセトアルデヒド酢酸合成工場から(少量ではあったが、アセチレン法塩化ビニール工程からも)廃棄されるメチル水銀化合物が大量の工業用水とともに工場外に排出され海水中に入り、膨大な海水に希釈される一方で、魚介類に取り込まれて蓄積し、その体内で濃縮されたメチル水銀化合物を保有する魚介類を摂食する動物に蓄積してその中枢神経を冒すにいたるというものだが、このメカニズムは多数の人身障害を発生させる労働災害、交通機関事故、食品害、薬害など人類がかつて経験したことがある事故形態とは著しい違いがあり、当時の医学で解明できないのは当然であった。
 またメチル水銀化合物の人体への吸収経路には、消化器からと、呼吸による肺からのものと、皮膚を介してのものがあるが、水俣病の場合は、高濃度にメチル水銀化合物が蓄積した魚介類を経口摂取することによって、メチル水銀化合物は消化管からほぼ完全に吸収され、血行を介して全身の臓器に分布する。その一部は血液脳関門を通過して中枢神経に蓄積されたり毛髪に移行し、神経細胞を傷害して神経・精神症状を引き起こすが、血液脳関門を容易に通過するところが他の水銀化合物と異なるところであり、また、一度障害を受けた神経細胞は回復せず、これが水俣病に一端かかると回復しがたい理由であり、そのため水俣病患者は長く苦しむことになる。
 そして、チッソの水俣工場付属病の院長であった院細川博士は、1956(昭和31)年5月1日、水俣地方に原因不明の中枢神経疾患が発生していることを水俣保健所に通報するが、これが水俣病の公式発見となった。
 そして、調べてみると家族や近隣の発症が目立っていため、当初は病気の発症状況から伝染性の病気と疑われることになる。そのため同年5月8日、西日本新聞が水俣病についての最初の報道を行っているが、そこでは「死者や発狂者出る/水俣に伝染性の奇病」と報道されている。また、これがこのあと当分のあいだ使われることになる「奇病」という呼び方が最初に使われたときでもあった。
 5月28日には、水俣保健所や新日窒病院、市立病院、市医師会、市衛生課の五者による水俣市奇病対策委員会が結成され(翌年2月19日、水俣市奇病研究委員会と改称)、病気の対策にあたることになる。しかし、このときすでに水俣病の発症という悲劇だけでなく、それに続く別の悲劇が発生することになる。
 水俣の漁師はほとんどが零細であり、そのため漁業関係者に発生が多くみられた水俣病の患者家族はみな貧しく、治療費・入院費など出すことができなく、また、奇病はうつるという恐れから、他の入院患者が恐慌をきたしてはじめていた。そこで、細川や当時の水俣保健所長であった伊藤蓮雄らは、伝染病なら一切が公費で賄われ患者の負担にならないことから、奇病は擬似日本脳炎ということにして、伝染病隔離病舎に収容することを思いついた。ところが、7月下旬にとったこの措置が、奇病は伝染するという印象を強めてしまう結果になった。
 水俣病は猫からうつされた「伝染病」などといわれたりしていたが、伝染病の疑いがあったため、患者が出た家のまわりや共同井戸などをくりかえし丹念に消毒していたため、奇病に対する恐れはつのり、人々の患者家族に対する迫害差別が激しくなり、「村はずし」と呼ばれる次のような差別が患者や家族に行われることになった。
「部落常会への出席を禁止され、近所の貰い水もことわられたので、炊事も出来なくなりました。夜も昼も三日ぶっとおしで井戸掘りをし、水が出た時は家族全員が泣き出しました。姉が〔水俣病で〕発作を起こして医者を呼びに走る時でも、自転車を借りにゆけば、『貸す白転車はなか!』と吐き捨てられ、苦悩する父の顔は今でも忘れません。学校でも、『傍に寄るな。伝染(うつ)っで』とボンボン石を投げられます。通学の時は、石のとどく所には居れず、なるべく生徒の通らん道・通らん時間をみはからって学校に行くので、遅刻ばっか、しおりました」という状態であり、また、水俣病でなくなった子供の患者の母親は、病院から遺体を家に連れて帰ろうとしても車も伝染病ということで断られ、泣きながら死んだ子供を背負って線路を歩いて帰ったという。
 差別は他にも、買い物に行ってもお金を手渡しでは受け取ってもらえず箸やザルで受け取られたり、家の前を鼻をつまんで通られたりし、誰からも声をかけられなくなり、そのため患者の家族は雨戸をしめて閉じこもるなどすることになってしまった。

 【関係性の断絶】
 水俣工場付属病院長である細川一博士の届け出により、公式に発見された水俣病は、当初「奇病」や「風土病」と呼ばれたが、伝染性のものではなく、重金属中毒であることは、1956年の秋には明らかにされていた。
 奇病といわれた水俣病のあらわれにより結成された奇病対策委員会は、熊本大学医学部に調査研究を依頼しており、熊本大学研究班は患者の血液や排泄物を調べたがウイルスや細菌はみつからず、また患者が水俣湾を漁場とする人や、漁家でなくても必ず水俣湾の魚介類を多く食べる人であることから伝染性のものではなく、マンガン中毒ではないか疑い始め、1956年10月10日には毎日新聞が「マンガン中毒か/水俣の奇病/熊大が分析」という記事をのせ、熊大研究班がマンガンは「近くの化学工場」からでたものではないかと疑っていることを伝えており〈 〉、この段階で伝染性の疑いは消えている。
 また、水俣病の原因物質の排出源については、かなり早い時期から工場内部の人間も含めて誰もが工場排水を原因と考えており、被害の拡大を防ぐには工場の稼働を一時中止し、適切な処置をとれば、被害を最小限にとどめることは可能であった。
 しかし、工場は操業を続け、国も本格的な調査をおこなわず、厚生省食品衛生調査会水俣食中毒部会の答申なども、原因物質が有機水銀であることを確認したものの、なお工場排水との因果関係は不明としていた。
 そして1965年には、新潟水俣病が発見されることになり、政府は1968年に、やっと水俣病の原因が、チッソ水俣工場のアセトアルデヒド製造工程中に副生されたメチル水銀を含む排水にあることを正式に認め、水俣病を公害病として認定し、この年、チッソも水俣工場のアセトアルデヒドの製造設備を廃止することになる。
 しかし、その間の水俣病の公式発見から12年間という長い時間、有機水銀を含む排水のたれ流しは続いていたし(下図1‐7参照)、経済成長を優先する政府もそれを黙認していた。その間にも人類史上例を見ない胎児性水俣病の発生や、10万とも20万ともいわれる慢性水俣病患者が発生することになり、現在にもつながる水俣病にまつわる悲劇を多く生むことになる。とくに水俣病の発生によって、海を生活のよりどころとする漁民達は物的・精神的な両面において、致命的な打撃を受けることになった。
 不知火海の沿岸漁村に住む人々の生活は、この豊穣の海に心身ともに深く結びついており、漁村ではイワシ網漁、刺し網、ボラ籠漁などに従事する人をはじめ、一本釣りで自由な海辺生活を送る人々、さらに海岸や岬の岩かげでアサリや、カキ、アオサなどを採集して暮す人々が住んでおり、決して経済的に豊かとは言い難いものはあったが、高望みをしなければ十分に生活は可能であった。また、漁で得た魚は自家消費される分も多く、水俣から14、15kmの距離にあり不知火海の中央あたりに位置する、やはり水俣病が発生した御所浦という島での食事は次のようなものであったという。
「(御所浦は)漁師の島で、米は全然とれない所です。昔は、半年は芋、半年は麦で、米いうたらお客さんがみえたときか病気になったときぐらいやった。だから魚がご飯で、芋・麦がおかずのごたる食べ方だったです。だけん、もう魚の食べ方が他とは全然違うわけです。いつも刺し身が多かったですが、なかでも多いときは大きな魚鉢に三つぐらい、山ほど盛って食べ放題です。そしてそれを朝、昼、晩と食べよった。自分で捕って食べて、漁に行かない家には分けてあげて、もう島の人間はみんな魚を食っとるわけです。」
 このような食生活は水俣においても同様に見られるものであり、やはり魚が主食に近く、米や芋は副食に近く、魚は朝、昼、晩欠かすことができなかったという。
 また漁師以外の住民にとっても浜に取れば貝などは簡単に手に入れられるもので、海は地域住民の貴重なタンパク源となっていたのであり、汚染による被害はそういう生活をする人々にとって、米びつに毒を入れられたのと同様の効果であった。
 そして水俣病の発生によって環境の破壊とともに、現在までも水俣に深い影を落としている、人と人との関係性の分断がみられることになる。
 当初、水俣病は伝染病と誤解されたことから多くの語り尽くせぬ出来事がおき、患者や家族にいわれのない差別が行われたが、そのとき患者達の部落共同体は苦しんでいる人を助けることはなかった。それどころか患者を出した家を厳しく差別することになる。
 水俣では漁業の操業に際し、網元、網子という関係があり、地域に何人かいる網元は30、40人ほどの網子と呼ばれる人を使い漁を行う形態があり、そこでは強い人的つながりがあったが、それも水俣病により分断してしまう。網元の一人娘であった杉本栄子さんは水俣病発生以前の部落の様子と、その変化を次ぎのように語っている。
「部落中が親戚の集まりのようで、120軒ぐらいを四軒の網の親方が分けて網子としとった。それも半農半漁でして、漁のないときは、「今日はあんた家(げ)ん畑ば掘ろうか」「次ぎはあんた家んとこほろうか」ちゅうようなことで、みんなが家族でした。どの家に行っても鍵がかかってないし、「ひだるか(ひもじい)」ちいえば、そこの家で食べさせてくれる。「おっちゃん(杉本さんは部落の人達が自分の父親をそう呼ぶため自身もそう呼んでいた)、あすこん家(ち)にはなにもなかったばい」ちいえば、「なら、うちんとを持って行ってこんな」ち。そげんよか部落でした。」
 そのような部落であったが、あるとき漁から帰ると母親に水俣病が発症しておりすぐ入院させているが、NHKラジオの夕方7時のニュースで杉本さんの部落の「奇病」のことがとりあげられ「マンガン病」と報道されると、伝染をおそれ、前の日まで食卓を一緒に囲んでいた人達が、報道を境に誰もこなくなり、部落中の人の態度が一変することになる。
 杉本さんが結婚し長男が生まれ、孫に会うため母親が病院から帰ってきたさい、つぎのようなことがあったという。
「母がどうしても孫にあいたいと病院から帰って来まして、帰り着いたその日の夕方だったと思います。母が、家から海のほうへ下りていったと思った瞬間、もう本当にけたたましい声でキイキイキイキイおめく(叫ぶ)もんで、主人も私もころがって(急いで)行ってみましたら、母が隣のおじさんに崖から突き落とされていたんです。「どげんしたこっばしてくるっとかな(なんということをしてくれたのか)」ちいって、母を抱きかかえてきたんですけれども、「わっどま(お前たち)歩(あゆ)ぶな。部落の道ば歩べば困っどが」ちいわれて。その方は、母が仲人をして嫁をもらってきた人です。それでもそんなことが何回も繰り返されました。」
 水俣病の発生により、強いきずなで結ばれていた地域の絆は分断され、家族同然のつきあいをしてきた人達は患者を遠ざけ、そして患者が出た家を激しく差別した。最も助けが欲しかったときに、頼みとした地域共同体から冷酷な仕打ちを受けた人びとの心の傷は深く、その痛みはいつまでも癒ず、忘れることができないものがあった。
 父母を水俣病で奪われた浜元二徳さんの長兄一正さんは、1971年(昭和46年)12月の手記に、つぎのように記している。
「普通の人は過去のことを忘れられるかもしれませんが、私には絶対忘れることのできないものです。奇病といった当時、恐れられた当時はどんなひどい杜会的隔離を受けたでしょうか。地域杜会には今日尚、白眼視する向きがあることに心からの憤怒を覚えます」
 「奇病」は感染する、あるいは遺伝するという恐怖と不安の集団心理は、共同体員の防衛本能を刺激し、患者を隔離し抹殺する衝動に人びとを駆り立てることになった。このような状況では、共同体がもつ本来の相互扶助のモラルも義理人情の関係も全く及ばず、昨日までの温かい人間関係はたちまち解体され、一転して患者たちは冷酷な孤独の中に突き落とされた。
 また、もともと水俣の漁民達には零細な漁民が多く、水俣病になる前から決して豊かな生活をおくっていなかった漁民を中心とした患者の経済生活は、たちまち困窮し、貧しさが患者と家族を襲うことになった。そのなかで、患者や家族は寄り添って貧困や周囲の差別から耐えるしかなかったが、貧しさのため、水俣病が魚介類を摂取することで発祥するということが明らかになってきても、他に食べるものがない以上魚を食べつづけていた家庭もあったし、まだ原因がわからないころは、漁業を営む患者の家族の中には、患者に少しでも良質の栄養を摂らせようとして、自らとってきた魚や高級なクルマエビ等を食べさせるものもいたが、このことがかえって症状を悪化させていたとは気付くはずもなかった。
 患者たちのおかれた状況は長く改善させなかったが、1961年、水俣を訪れた原田正純氏は、当時の患者の困窮の様子を次のように書いている。
「1961年初夏、私は水俣病多発地区にはじめて足をふみいれた。目的は、水俣病患者の臨床的追跡調査であったから、湯堂、茂道の何軒かの患者の家を訪ねたのであった。そこでみたものは大学の研究室にいては想像できない異様な光景であった。家は傾き、畳やふすま、障子はみるかげもなく、家のなかはがらんとして家具もなく、貧困の極地であった。そのなかに患者は雨戸を閉じて、ひっそり隠れるように、息をひそめるように生きていたのである。東京では、前々年、皇太子の華やかな結婚式があり、テレビの普及率は急上昇した。戦後15年経て、いまなおこのような生活があることがショックであった。」
 そのようななか、医療費や働き手を患者としてなくした家族は、着物など身の回りのわずかな品物を売り、そして生活の糧の中心である舟を手放していくが、それからあとは生活保護を受けるしかない。
 しかし、生活保護を受ける人間を地域は理解しなかった。
「村の感情ちいうのは、生活保護うけとる人間な、自分達の仲間に入れんとですもんな。(村の感情というのは、生活保護を受けている人間を自分の仲間に入れないんです)もう、考えになかっですたい。人間性を全然考えん〈田上義春談話〉」ということであったが、それでも水俣における生活保護世帯数は、1955年に505世帯だったものが、1960年に450、1962年644、1965年799、1968年791、71年には795世帯と増加の傾向が見られ、その増加には水俣病の影響があったと考えられる。
 このように、生活の中心であった海を奪われ、地域のコミュニティーからも疎外された患者たちにとって頼るべき生活保護さえも、また差別の対象になるという状況のもとで、周囲との関係性が分断された患者達の生活はまさに地獄という形容も言い過ぎではないようなものであった。しかし、患者や魚が売れなくなった漁師もただ黙っているだけではなかった。次には原因の究明と漁師の反応を見ていく。

 【原因の究明と漁民の反応】
 患者と地域コミュニティーとの断絶のなかで、患者たちの地獄のような生活はその後も長く続くことになる。しかし水俣病患者や不知火海を漁場とする漁民もただ黙っているわけではなかった。
 熊本大学医学部などの迅速な対応により原因物質など水俣病の解明は進み、水俣病の症例がハンター=ラッセルの有機水銀中毒例と一致することなどから1958(昭和33年9月あたりから疑われていた水銀が注目され、1959年(昭和34)年2月9日には、厚生省水俣病食中毒部会(熊本大学医学部水俣病研究班をまるごと抱えこんで厚生省の研究班として同年1月に発足)は水俣湾内の調査の必要性を確認し、その結果百間排水溝あたりのドべには、驚くべきことに1トンあたり2キロの水銀という水銀鉱山なみの水銀を検出し〈 〉、1959年7月、熊本大学研究班は水俣病と酷似した症状を与える物質として、メチル水銀をつきとめ、水俣湾の底土や魚が水銀で高度に汚染されていることを発表している。
 しかし、この原因物質を追及する過程も大変であった。 
 水俣工場からほとんど無処理で流される排水には、多種多様な物質が含まれており、しかもそのなかに銅、鉛、水銀、砒素、マンガン、セレン、タリウムなど有害なものが何種類も含まれており、水俣湾を多重に汚染していたからである。
 だが、原因の究明が進む中でもチッソは操業を続けその年間売上は100億円を突破する勢いで、また拡大する汚染に対しては、チッソは1958(昭和33)年9月にとりあえず百間港付近の汚染を止める方法とし、アセトアルデヒド酢酸廃液を従来の百間港から、八幡プール経由で水俣川河口へ流し、不知火海で希釈させようと河口から排水を流し始める。百間港は二重湾である水俣湾の内側に開口しているが、水俣川の河口は水俣湾の外側にあり、川は直接に不知火海にそそいでいるからで、排水は不知火海全域に広がることになる。そして、この安易な措置により、水俣病は不知火海全体に広がりを見せ、河口の津奈木・湯浦などで新患者が発生するなど被害は拡大していくことになる。
 しかし、1959年10月にはチッソ付属病院の細川博士が猫400号実験を成功させているように、もうすでに工場排水が原因物質として疑わしいということは工場でもわかっていたのであるからこの排水口の変更は悪質極まりない。
 結果、1959年(昭和34)年2月には、津奈木の沿岸地帯で大量の魚が浮かび、対岸の獅子島でも死魚が漂着し、猫の狂死も北上して湯浦、佐敷にまで及び、津奈木や鹿児島県の米ノ津でも患者が発生し、秋には確認された患者は75人に達し、不知火海沿岸にパニックが起きる。このようななか、県も魚介類の危険性から食品衛生法の適用をもとめていたが、厚生省から不可の回答を得ていたため、水俣漁協は自主的に水俣湾内の操業を規制していたが、1959(昭和34)年4月には水俣漁協は自主的に地先1,000m以内の漁獲禁止にふみきり、市とともに監視船で湾内で操業しないようパトロールを行っている。
 また、1959(昭和34)年7月には経営が悪化した水俣市鮮魚小売商組合(80人余)は総会で水俣近海でとれた魚介類及び、市内漁民がとった魚介類も一切購入しないとの決議をしているが、それくらいでは水俣産の魚貝の危険性は打ち消せず、魚は相変わらず売れないため生活難が彼らを襲い、そのため食糧として危険を承知して漁獲禁止区域での操業を行い魚貝をとるものもいた。また、どうしても昔から自分達に恩恵を与えてきた海が汚染されていると信じられないため魚介類をとり続けるものもいた。
 しかし、1959年7月の熊大研究班による原因物質の発見は、魚が売れず貧窮のどん底にあった漁業関係者に強い衝撃を与えることとなり、水俣の漁民達は、それまで市を支配していた工場に向かっておずおずと交渉を求めたが、工場側の強硬な拒否で次第に力で押し合う交渉となっていく。
 1959年8月6日には、耐えかねた水俣の漁師、小売商らおよそ350人が、浄化装置の設置と、一億円の漁業補償金、浄化装置の設置を要求し工場に押しかけ、工場側の態度に漁民が怒り、交渉会場に乱入する、いわゆる第一次漁民補償要求闘争がおこり、結果漁業補償3,500万円で決着した。この事件に関しては、労働者と漁民は同じ働くものとしての基盤に立ってるいということで、新日本窒素労働組合も原則漁民の闘争の支援をするという提案を、同年8月19日代議員会にて可決している。
 また、水俣漁民と違って直接チッソの恩恵をこうむってない不知火海を漁場とする漁民達も魚が売れなくなり、売れてもわずかな金額にしかならず、生活の道を断たれた漁民達は、食事にも事欠くような有様で、ようやくその日その日の生活を送るような毎日をすごしていた。そのためチッソに対し工場排水の停止、浄化装置の早期設置、海底沈殿物の除去を強く要求し、総決起大会など行っていたが誠意の見えない会社側の対応に業を煮やし、1959年11月に不知火海全域の漁民達の怒りはついに頂点に達することになった。
 1959年11月2日、衆議院議員調査団が水俣に来るのにあわせ、津奈木、芦北、天草方面から幟をたてた大小の船300隻が百間港に上陸し、また、田浦、鏡、文政、竜北、和歌島、二見、八代、日奈久といった不知火海沿岸北方の漁民達も列車で到着し、県魚連傘下36単位漁協からの漁民総数は2,000名にも達し、デモを開始し(水俣漁協はこのデモに加わっていない)、デモ隊は視察中の国会議員団を迎え陳情したあと、総決起大会を開催して漁業補償、患者見舞金、排水浄化装置完成までの操業停止を要求し、工場に団体交渉を申入れたが拒否されたため、ついに漁民が工場に対し、投石を開始し、その後工場内に侵入し、ガラス、計算機、電話機など事務所を破壊し、出動してきた機動隊など500名近い警察官と衝突し、結果警察官80名、漁民23人が負傷し、工場側も西田工場長以下4名が負傷するという大事件にまで発展した(第二次漁民紛争)。
 その際工場長の西田に裂傷を負わせた人物が、もし西田工場長の顔を知っていたらつぎのようなことになっていただろうという談話がある。
「わたしらはその工場長の顔なんかやはり知っちゃおらんけんですね。そら知っとったとなら、恐らく生きちゃおらんかったでしょうな。そら叩っ殺しとったですよ、そん時には。
こりゃですね、工場のために、もう何百人の人間が死んどっと、だけんですね、……もう私の網子やったって六人ですかね、もう水俣病にかかっとるですから。(私達はその工場長の顔なんか知ってはいなかったからですね。それは知っていたならおそらく(工場長は)生きてはいなかったでしょうね。それは殺してましたよ、そのときには。これはですね、工場のためにもう何百人もの人間が死んでるのだからですね。…私の網子でも6人ほど水俣病にかかっているのだから)」
 本当に殺人にまで発展したかはわからないが、当時の漁民の怒りはそうとうなものがあったことはうかがえる。そして、この事件を契機に水俣病事件は一気に社会問題化し、全国的に知られるようになり、またこの漁民達の行動に後押しされ、1957年8月に結成された水俣病患者家庭互助会も補償金を要求し、1959年11月28日から工場正門に座りこむことになる。
 しかし、このように漁民や患者はぎりぎりの状態におかれていたが、国や県はチッソに排水停止を求め原因究明に力を貸すどころかチッソ擁護に動くことになる。とくに、1959年に原因が特定されると、原因物質を攪乱し、水俣病を隠そうとする動きが多次元的に動き出すことになる。国と県の行政は、高度経済成長と産業界、化学工業界への打撃を回避するために、水銀説をあえて認めず、それどころか様々な異説を立てて水俣病の原因究明の攪乱を図ったのである。
 1959年に通産省軽工業局長に就任していた秋山武夫は各省連絡会議で非水銀説を主張し、さらに同年12月には厚生省環境衛生部長の聖成稔は水俣工場を訪れ、工場の排水を疑うやり方を白紙に戻すと述べ、有機水銀説の否定をほのめかし、通産省は東京工業大学教授清浦雷作のアミン説を主張する論文を広く配布するなどしている。
 日本化学工業協会に関わりの深い学者達もまた行政と連係して様々な異説をたて原因究明の攪乱を図っており、終戦時に海に投棄された爆薬が原因とする説や農薬が原因とする説など様々な説をでっちあげたと言ってもよい。
 また、漁民達の必死の行動に対し、地域はつめたかった。漁民騒動をうけ、チッソ労働組合ですら、従業員大会で「水俣病原因未確定の現在、工場の操業停止には絶対反対。われわれは暴力を否定する。工場を暴力から守ろう」などと決議しており、また、市長、市議会議長、商工会議所、農協、チッソ労組、地区労は共同で「工場排水をとめることは工場の破壊であり、市の破壊になる」と寺元知事に要望し、県警には「暴力行為に十分な警備をすること」を要望している。
 労組の姿勢は漁民だけでなく、工場正門前のアスファルトにゴザを敷き、補償要求に座り込んでいた患者たちにも向けられ、患者互助会に貸していた組合のテントの返却を求め、女性が多かった互助会員たちは、冬の水俣川にテントを抱えて行き、涙とともにこれを洗いきれいにして返したという。
 こうした動きには、財政的にも人的にも大きな影響力を持つチッソの意向が反映されているといえるが、水俣市民の中にも長年にわたって浸透したチッソとの運命共同体意識が、こうした動きを促進させたということができる。
 また漁民の不満の再度の爆発をおそれた県警本部は漁民の一斉家宅捜索を行い、1960(昭和35)年1月には、めぼしい漁民のほとんどが一斉逮捕され、数百人の漁民が暴行容疑者として拘留・尋問され、55人が起訴され、当時チッソに最大の脅威だった勢力が国家権力によって取り除かれた。
 そして起訴された55人のその後の運命が、3分の2に近い者が水俣病患者となって苦しみ、その半数以上が死亡、うち首吊り自殺2人、農薬自殺1人という悲劇が示すよう、不知火海漁村の家々に深い敗北感が漂うことになり、また、行政や会社の巧妙な分断工作により患者運動と楔を打ち込まれ、水俣病解決に尽力するどころか、後には「患者かくし」に奔走することになる。また、座りこみを行った患者たちも、1959年12月30日、いわゆる見舞金契約を受諾させられる。
 この契約には、後に病気の原因がチッソとわかっても文句は言わないという条項と、原因がチッソに起因しないと決定した場合年金は打ち切るという条項が含まれており、しかも死者1人に30万円、生存者に年金として成人10万円、未成年者3万円、葬祭料2万円という当時としてもごくわずかな額のものであり、後の裁判で公序良俗違反により無効とされるほどのものであったが、困窮する患者たちはこの契約をのむしかなかった。
 しかも、このわずかな額の契約により、患者たちは年金を会社から奪い取ったということで、さらに水俣の住民から嫉視、憎悪、疎外され、全く孤立してしまい、病苦と貧窮と社会的差別の三重苦の底で息を潜めることになった。

3、重層する差別と沈黙
【過去からの差別との重層】
 1959(昭和34)年12月30日、水俣病患者家庭互助会とチッソの間で結ばれた見舞金契約により、契約のなかで定められた認定制度により、それ以前に発見されていた79人が認定され、1960年には8人、1961年には1人の新患者が認定されているが、見舞金契約により金銭の支払いが行われたことで、水俣病事件は終息したという考えが地域社会に広がり、マスコミの水俣病問題への関心も急速に薄れ、原因は未確定ということのままで社会的に幕引きされてしまうことになった。
 これには、1959年12月19日に竣工した凝集沈澱処理装置(商品名「サイクレーター」)のはたした役割が大きかった。チッソは排水の処理のためこのサイクレーターを設置し、完工式では、福岡通産局長や熊本県知事を招き、吉岡喜一チッソ社長が処理されたとされる水を飲んでみせるというパフォーマンスまで演じたが、サイクレーターには濁った排水を見た目にきれいにするだけで、水銀の除去機能はなく、チッソは試運転時にそのことを知っていたため実際には、アセトアルデヒド製造工程の排水は八幡プールに送りサイクレーターには流さなかったが、市民はもちろん研究者もサイクレーターの完成により水俣病は終わったと信じた。
 このようななかで患者たちは、水俣病という病苦のための差別が解消するどころかますます激しくなっていく。確かに伝染病として恐れられた初期の奇病時代ともいえる時期にも差別と迫害は深刻であったが、それはむしろ「奇病」が「チッソが原因の水俣病」であり、一般に伝染しないことがわかり、問題は解決し、もう患者は発生しないし、病人が出てもそれは水俣病ではないという意識が地域で確立していき、水俣病の問題には触れまいとする「水俣病かくし」が見られるようになってからさらに激しくなっていった。
そして、患者発生の地域が歴史的に下位に扱われてきた「流れ」者の部落であったことが何世代にも渡って地域に住む「地ごろ」の市民の差別感情を更に刺激し、そのうえ困窮した患者が"役所"から保護費を受けたり、会社から見舞金や補償金を受け取ったことで、その差別感情は一気に激化し、患者に対し、憎悪や敵意さえ抱くようになっていった。
そして次のような心ない罵詈が患者や家族を苦しめた。「奇病ちゃ漁師もんが多かったい(奇病といえば漁師が多いんだ)。大体漁師ち言えばなぐれ(流れ)でよそもんやろが!。(大体漁師といえばなぐれでよそ者だろ!)」「湯堂、茂堂、月浦、丸島、舟津、みんな貧乏人のなぐれの漁師風情でしょっが。あっだどもは(あいつらは)、弱った魚をどしこ(たくさん)食べて奇病になりよった、これは事実ですじゃ。」「あんなのにかかるのは、大体馬鹿んごたっと(みたいなの)ばかりですよ。」「俺も奇病になろうごたる(なりたいな)。銭ばもろうて良かね。」
 こうして過去からの差別意識が、患者の多発した地域差別と結びつき、そして水俣病患者はチッソ、行政、住民一体となっての締めつけを受け、水俣の繁栄を脅かす「厄介者」として共同体内からはじきだされ、息をつめて隠れて暮らさなければならない状況に追い詰められたのである。
 また、この時期には水俣の現代に続く大きなもうひとつの問題が起こった。それは、水俣市を二分したチッソの労使紛争である。

【安賃闘争】
水俣工場のアセトアルデヒド生産もピークを過ぎ、石油化学工業への移行で他の企業に遅れていたチッソは、1962(昭和37)年4月、経営の合理化策の一環として「安定賃金」を労働組合(新日窒労組)に提案する。
これは、昭和37年から40年までの4年間は、賃上げ額を同業他社の平均妥協額をもとに自動的に決定し、他の同業企業並のべースアップを約束する代わりに労働争議権を放棄し、合理化案に協力するというものであった。しかし、組合側がこれはストライキ権を制約するものであるとして拒否したことで、労働組合と会社側との話し合いは決裂し、労働組合は総評、合化労連の強力なバックアップで無期限のストに突入した(これを「安賃闘争」とよぶ)。
これに対し会杜側はロックアウト(組合員の締め出し)を行い、同時に組合員の切り崩しを行い、チッソ労組(新労)という係長・主任クラスを中心にして第二組合を結成させ、第二組合員のみで操業が開始され、対立は一層激化していく。
 また、安賃闘争前夜1961年の市税総収入2億3,500万円のうち、チッソ関係からの収入は、市民税、固定資産税、都市計画税あわせて1億1,560万円で、市税総収入の50.3%を占め、水俣市の人口48,553人のうち、チッソの従業員とその家族は水俣人口の3分の1近くを占めるという状況であったため、チッソ従業員以外の市民も安賃闘争は他人事でなく、チッソ従業員の家族や親類、関連会杜、取引商店など、多くの市民もどちらの立場に立つのかを鮮明にしてボイコット運動などでそれぞれの運動を支援したため、労組間のみならず立場を異にした市民のあいだにも排斥、憎しみなどの対立感情が生まれ、地域社会を二分する争議にまで発展することになった。
 この争議では多くの武装したデモやピケが行われ、また、旧労による「組合員、家族総決起大会」では、旧労の日窒労組の組合員のほか家族などおよそ4000人がヤッケにヘルメット姿で参加し、主婦の会会員は1,600名などは麦わら帽子にズボンやモンペ、足には運動靴といった武装姿で参加しており〈 〉、組合員の家族としてもこの問題がいかに大きかったかがうかがえる。
 また、組合の分裂は、地域においてもそれまでの人間関係に激変を生じさせ第一組合から「脱落」した本人だけでなく、その家族までも「裏切者」として罵倒され、隣近所から疎外される姿は珍しくなく、たとえ親子であっても「組織破壊を行う分裂策動者をその職場から排除するだけでなく、その地域における労働者から完全に仲間外れにするという斗いの構えが必要」とされたという〈 〉。暴行事件も発生し負傷者も出、警官によるものものしい警戒も敷かれ、まるで戦争のような状態であったという。
 また、争議中の水俣には、様々な集団、組織が結成され、市民及び労組員むけアピールが毎日何千、何万枚という数え切れないほどのビラとなって乱舞しており、ビラ合戦や反対側商店からの不買運動など、水俣の市内はまさに内乱となり収拾のつけ難い泥沼になった。また、そのなかには松本勉を中心に、石牟礼道子などが参加していた「水俣文化集団」の姿もあった。
 結局三井三池の大労働争議と肩を並べるまでに大きくなったこの争議は、熊本地方労働委員会の斡旋により翌年1月に収拾し、敗北感のなかで第一組合は「不満ながら今次ストをここで収拾し、長期抵抗の戦いに戦術転換をとる」〈 〉とし斡旋案を受け入れ、チッソの生産は9ヶ月ぶりに正常化されたが、労働組合の分裂とその後の旧労に対するチッソの厳しい差別的処遇など、対立感情は根強く残った。
一旦亀裂が生じた骨肉の争いはその後埋められることなく、会社と第一組合との対立、第一組合員と第二組合員との従業員どうしの反目は当然なこととしても、双方の支持に分かれた地域住民の感情も長期間にわたり融和することはなかった。
市議会でも、チッソ出身の議員は二派に分かれて会派を結成し、議会人事や重要議案などについては感情的な対立が繰り返された。また、新旧労連の組合員が混在する地域では、花見にしても、祭にしても親睦の行事は、地域がまとまって行われなくなったところが多く、何かと衝突しがちとなり、連帯感はなくなっていった。
水俣市民の感情の亀裂は水俣病の発生によって生まれたといわれるが、この安賃闘争によって二分された市民の対立はより激しいものがあるといえる。そして、水俣の内面社会の底部に深い影を落としており、事あるごとに騒動に共鳴し振動を増幅してきたのである〈 〉。また、この争議は水俣病が公式に発見されてから6年目にあたり、その原因がチッソの排出中の有機水銀であるとほぼ断定し、チッソの責任が問われ始めた大事な時期の出来事であったが、このことにより水俣病に向けられた関心が争議に移ってしまった。
また、旧労の第一組合にはチッソによる差別的待遇により会社への批判意識が芽生え、水俣病患者と連帯して、チッソを糾弾する動きが第一組合に広がり、1968(昭和43)年8月30日、合化労連新日本窒素労働組合が「恥宣言」と呼ばれる決議を行い、水俣病の被害者への支援へと動き始めている。
しかし、このような動きのなかでも、それでも依然としてチッソの影響は強く、西日本新聞社が闘争15年後に実施した市民の意識調査(昭和52年4月3日付同紙)で「安賃闘争をきっかけに水俣市がとげとげしい町に変わったか」という質問に、賛成40.8%、反対15.1%、不明44.1%と答えており、安賃闘争の影響の大きさを見ることができるが、「チッソはあなたにとって必要であるか」との質問には、実に88.8%が然りと答えている。
そして、安賃闘争の対立感情は後々まで尾を引くことになり、地域に残された市民間の対立も癒されることなく、一部には今日までその傷を引きずることになった。

【裁判と補償】
 水俣病の原因追求が行われているなかで、1965(昭和40)年5月31日、新潟大学から新潟県衛生部に「原因不明の水銀中毒患者が阿賀野川下流海岸地区に散発している」と報告があり、新潟水俣病の発生が公式に確認されることになる。
 1967(昭和42)年6月、新潟水俣病患者らが汚染源とされる昭和電工を相手どり、慰謝料請求を新潟地裁に提訴し、日本初の本格的公害裁判が始まる。
 このような状況の中で、1968(昭和43)年9月26日、「水俣病に関する政府公式見解」が発表され、「熊本水俣病は、新日窒水俣工場アセトアルデヒド酢酸設備で内で生成されたメチル水銀化合物が原因」(厚生省)と断定され、「新潟水俣病は、昭電鹿瀬工場アセトアルデヒド製造工程で副生された、メチル水銀化合物を含む排水が中毒発生の基盤」(化学技術庁)として、各水俣病は、公害病と公式に認定されたが、この年の5月にチッソはアセトアルデヒドの製造を停止しており、国内における水銀を触媒としたアセトアルデヒドの製造は行われなくなっていた。
 このとき熊本水俣病の発生が最初に報告された1956年(昭和31)年5月から数えて12年目のことであったが、ここに至るまで汚染海域の漁業に関する規制は、漁業による操業自粛だけであり、(旧)工場排水法に基づく規制が開始されたのは、水俣工場のアセトアルデヒド製造が停止した後の1969(昭和44)年2月のことであった。
 政府が水俣病を公害病と認定したことにより、患者補償の問題が再び持ちあがった。患者互助会は、チッソに対し補償要求書を提出し交渉を行ったが「補償基準の目安がない」ということで進展せず、厚生省が「水俣病補償処理委員会」を設置することになり、それに先立ち患者に対して「委員の選任には厚生省に一任、結論には意義なく従う」という確約書の提出を求めたため、確約書の提出をめぐり、1969年4月に、確約書を提出して斡旋を依頼する人たち(いわゆる一任派)と、チッソと直接交渉する人たち(いわゆる訴訟派)に分かれることになり、訴訟派は同年6月患者・家族28世帯112人はチッソを相手どり、総額6億4,200万円余(後に追加、要求総額15億8,800万円余)の慰謝料を求め熊本地裁に提訴した(一次訴訟) また、1968(昭和43)9月の政府公式見解(公害病と認定)発表以後、認定申請が相次いだ。1969(昭和44)12月公布された「公害に係る健康被害の救済に関する特別措置法」に基づき設置された熊本・鹿児島の公害被害者認定審査会において棄却された9人が、1970(昭和45)に棄却を不服とし行政不服審査請求を行っており、また、1971(昭和46)年の有機水銀の影響が否定できない場合は水俣病と認定するという、いわゆる旧環境事務次官通知により認定審査会から改めて水俣病と認定された人たち(新認定患者)は、1971(昭和46)年10月11日チッソと直接交渉を開始した。
 しかし、チッソはこれまでの患者と認定の趣旨が違うと中央公害審査委員会での解決を主張し、これに対し患者側は納得せず、一人当たり3,000万円を要求し交渉は進まず、支援者も加わって、チッソ水俣工場正門前での座りこみ交渉に入り、やがて東京本社交渉に移り、厳しく対立したまま長期化した(自主交渉派)。
 このような状況の中で、チッソを町の繁栄の支えとしてきた水俣市民にとっては、チッソの存亡は、市の死活問題としてとらえられ、危機感が高まり水俣病の早期解決を求める一部市民から、新認定患者の行動を批判するビラなどが出され、患者側からはこれに反発するビラなどが出されるという〈 〉、ビラ合戦が始まった。
 また、チッソから補償金が支払われ始めると、それまで風が吹き抜けていくような陋屋に住んでいた水俣病の患者や家族は、自分達が死んだときに水俣病の子供達や家族が生きていけるよう、せめて財産として家を残したいという考えもあり、補償金で新改築をすることが流行のようになった時があったが、これも色々な批判があった。
 それらの家は、一部の市民から「水俣病御殿」などと皮肉られるように、スペイン風のしゃれた家が並び、新築の応接間にはシャンデリアをつけ、大きな仏間があるなど外見の豪華さはあったが、トイレや風呂などの設備や設計について、必ずしも患者のことを十分に考慮したものではなく、またそのような外見の豪華さから、心無い人たちに「補償金目当てに水俣病を申請して豪華な『奇病御殿』をつくっている」と揶揄されるなど患者のためになっていない場合も少なくなかった。これは宮本憲一などが指摘しているように、水俣病患者に限らず庶民になんらかの補償金がはいる場合「開発御殿」になる傾向があり、鹿島コンビナート開発地域でも、ダム開発により水没する地域でも同様のことが見られ、生活のレベルから乖離したそのような家づくりや派手な生活は破綻することも多く〈 〉、水俣でも同様のことがあった。
 また、補償金を求める裁判に結果がでると補償を求める人が多くなり、それまで厳しく差別されてきた患者たちにすればそれを静かに見ておくことは難しく、次のような感情の吐露があったという。
「腹一杯、漁師ン悪口ば、いいよったつが(言っていたのが)、裁判のおわってからちいゆうもンな(裁判が終わってからというもの)、われもわれもち水俣病ちィいいよる(私も私も水俣病という)。なんの芋くうて水俣病になろうか(〈漁師の悪口をいって魚を食べず〉芋ばかり食べていたのに水俣病になるはずはない)、なあ先生、水俣病は芋くうてなっとですか?」
 そして、1974年ころから、水俣病申請者の急増に驚いた政府と財界は、患者の運動に対して反撃を開始した。まず、その皮切りになったのが、ニセ患者キャンペーンである。
 補償金欲しさに患者をよそおう者がいるという中傷は以前からあったが、1975年にはこともあろうに熊本県議会の公害特別委員長が環境庁に対しての陳述で発言したことにより、その影響は大きなものとなった。
 また患者の審査に当たる認定委員会を一時機能停止させ、委員を入れ替えて棄却を多くした。ついで環境庁は認定を限定するよう方針を修正した通達をだし、患者の集中検査は、患者が金欲しさに嘘をついているという予断を持つ医師が当たったこともあった。要するに患者の数を低めに見積もるために、行政は全力をあげたといってよい。
 企業城下町の未来に対する不安は、患者への偏見、差別として現れていたが、それを増幅したのは政治であり、企業のかわりに、政治が水俣病の押しつぶしに出てきたと見ることもできる。また、海にも水俣病対策のため、1973(昭和48)年9月、熊本県は水俣湾全域に水銀基準値の25ppm以上のヘドロが堆積していると発表し、1974(昭和49)年12月、県は25ppm以上と以下に水域を水俣湾に定め、仕切り網を設け25ppm以上の水域の魚を引上げては投棄する作業を、水俣漁協に行わせた。
 この間、漁業者数も変化し、1958(昭和33)年に水俣市の漁業者は315世帯であったのが、1976(昭和51)年の漁業者は143世帯で、半分以下に減少しており、この背景には、禁猟区の設定のために魚がとれなくなったこと、汚染のために魚が売れなくなり、売れても安くしか売れず、そして漁業者が水俣病のため身体がきかなくなり出漁が不可能もしくは困難になったためであった。
 またこの間、未認定患者たちは裁判という手法をとっていった。患者側は主として裁判の場で、認定の棄却、患者に対する弾圧、中傷、認定業務の遅れなどについて訴え、その大部分は勝訴していくが、この訴訟で患者たちが求めたものは金銭的補償もあったが、それ以上に人間として謝って欲しいということであった。
 水俣病はいくら費用をかけても回復するものでもないし、すでに亡くなってしまった患者も多く、そのため患者対がもとめたのは、罪を認めて欲しい、そして亡くなった患者や現在苦しんでいる人に対し、人としての誠意をもって謝って欲しいということであった。しかし、チッソも国も長い間謝罪を行わなかった。
 また、この過程で新しい事実が明らかにされ、法理論の前進、定着がなされたものもあった。しかし、患者団体も考え方の違いや立場の違いから15団体以上にも分裂し、裁判は大変な手間と時間を要し、1995年(平成7年)12月政府による最終解決案による一応の最終解決がなされるまで40年近く、患者や支援者達はデモや座りこみも含め、水俣病に苦しむ身体や、経済的に恵まれないなかで長い裁判闘争に翻弄された。 

【最終解決案】
 最終解決について見てみると、長引く裁判闘争のなか東京地裁は1990(平成2年)9月、「水俣病間題の早期解決のためには、話し合いによるほかはない」として、水俣病事件史上初めて和解を勧告し、各裁判所からも相次いで和解勧告が出された。
 また、患者の高齢化が進むなか「生きているうちに救済を」という声も高まり、このような背景もあり、1994(平成6)年頃から水俣病問題の早期解決を図ろうとする政治的な動きが活発化し、12月には与党3党は水俣病閥題の解決について本格的な検討に入り、1995(平成7年)に入ると被害者団体、熊本県、関係省庁など関係者間の調整が進み、9月28日には関係者の意見を踏まえ、与党3党による水俣病問題についての最終解決案が提示され、12月までに関係当事者間で合意が成立した。含意の基本的考え方は以下のようなものであった。
(1) 水俣病に関する様々な紛争については、次の枠組みにより、早期に最終的かつ
全面的な解決を図る。
@  原因企業は、救済対象者(現に総合対策医療事業の対象である者等)に一時金
  (260万円)を支払う。
A  国及び熊本県は、水俣病問題の最終的かつ全面的な解決に当たり、遺憾の意など 
  何らかの責任ある態度を表明する。
B  救済を受ける者は、紛争(訴訟、自主交渉、認定申請、行政不服審査請求及び
  行政訴訟)を取下げ等を行うことにより終結させる。
(2) 国及び熊本県は、紛争の終結に際し、総合対策医療事業の継続及び申請受付再開、
チッソ支援、地域再生・振興のための施策を行う。
 これを受け、政府は1995(平成7)年12月15日、関係当事者間の含意を踏まえ、国が行う施策を定めた最終解決策を閣議で正式に決定するとともに、村山内閣総理大臣談話を発表し、1996(平成8)年2月から5月にかけて、合意に基づき、被害者5団体それぞれとチッソとの間で、一時金支払と紛争終結の協定が締結された。同年5月には、協定締結を受けて、熊本、福岡、大阪、京都、東京の3高裁4地裁で争われていた関西訴訟を除く国家賠償等請求訴訟は、原告とチッソとの和解、原告による国と熊本県に対する訴訟取り下げにより決着した。これにより、すでに総合対策医療事業の対象である者(熊本県3,374人、鹿児島県873人)、新たに総合対策医療事業の対象となった者(熊本県3,851人、鹿児島県1,340人)並びに総合対策医療事業対象者であった者で死亡したもの(熊本県162人、鹿児島県59人)及び新たに対象となった死亡者(熊本県605人、鹿児島県89人)をあわせて一時金の支給を受けた救済対象者は、熊本県7,992人、鹿児島県2,361人の合計10,353人に上り、このうち死亡者を除いた9,438人は、総合対策医療事業の医療手帳の対象者となり、療養費等が支給されることになった。また、一時金の対象にならなかった人のうち1,187人(熊本県842人、鹿児島県354人)は、はり・灸施術療養費等が支給される保健手帳の対象者となった。
しかし、救済対象者に支払われた一時金(260万円)に見るように決して長い裁判の過程に見合うものではなく、また水俣病の社会的・身体的苦しみから解放された訳ではなく、全国ではまだ係争中の裁判もあり、水俣病はまだ終わっていない。

 【チッソ救済とPPP】
 ここで、水俣病を起こした原因企業であるチッソの補償問題について見てみる。
公害による被害者の救済や補償、環境復元などは公害を引き起こした者がなさなければならない、との決まりがある。汚染者負担の原則と言われるものでPPP (polluter pays principle:本頁下記脚注参照)と一般にいわれている。
 PPPの原則からいうと、水俣病を発生させた原因物質はチッソの排水中の有機水源であることは確認されており、当然にチッソが水俣病の救済をしなければならないことになる。しかし、チッソが原因者として確定したころまでは、チッソの経営状態もよく、被害者の数もそう多くはなかったが、1972年(昭和47年)ごろから、認定申請の増加にともなうチッソの補償金の増大や、石油危機による不況などよる経営の悪化から、1977年(昭和52年)末の決算では、累計赤字が364億円余りにのぼり〈 〉、補償金の支払いが危ぶまれるようになる。
 補償問題を進めるとチッソは倒産してしまい、チッソが倒産するということは、PPPの制度が崩れ、水俣病補償の破綻を意味し、チッソに依存した地域経済は大きな打撃を受け、まちの衰退を招くことが考えられた。
 このような状況を受け、市民の間でもチッソの倒産を危ぶみ1971年(昭和46年)には、「みなまたを明るくする市民連絡協議会」が結成され、開会を開き、水俣病補償問題の早期解決や、公害被害者救済の制度の拡充、水銀へドロの埋め立て処分、水俣病の病名変更、水俣市の経済基盤の確立、新規企業の誘致などを各方面に働きかけることを決議するなど行い、また、1977年(昭和52年)には市議会各派代表、水俣病患者や労働団体、政党など27団体が参加して「水俣病対策、水俣・芦北地域振興並びにチッソ水俣工場の存続強化についての市民運動の会=略称・水俣市民運動の会」が結成され、患者の完全救済、チッソの存続などの要望についての署名運動を行い、27,000人余りの署名を集めるなど、チッソの存続への動きが見られた。
 また、近年1993年にも市長、市議会議長を始め議員代表が発起人となって会の発足を呼びかけ、2月6日194の団体が参加して「水俣病問題の早期・全面解決と地域の再生・振興を推進する市民の会=略称、市民の会」を設立し、水俣病を地域全体の問題として認識し、自ら行動を起こしていくなどといった決議のほかに、地域経済・社会の安定のためチッソに対する特別の支援措置を図るようもとめていくことも決議されており、チッソの存続が求められており、この決議に関連して約2万5千人の署名が集まっている。
 そのような動きもあり、国はチッソ県債という形で患者補償の資金をチッソに金融支援しており、1978年(昭和53年)に貸付が始まり、そのような公的債務額は1999年(平成11年)3月末期において、約1442億円(元金(償還予定額約2,308億円))という巨額なものになっている
 なぜ、このような企業が倒産もせずに、公的資金を借り操業を続けているか疑問もあるところであるが、これはPPPには原因者が倒産した場合の手立てが確立していないため、国はチッソを存続させることとして、患者補償が滞らないよう県債という形で患者補償金を貸し付けて支援するという方策をとったためである。
 チッソが倒産してしまうと、患者の保証などがすべて国または県が引き継がねばならず、これからも起こるであろう公害の処理を考えるとPPPの原則を崩すような前例を作りたくなかった国・県と、なんとか生き延びようとするチッソ、チッソ存続と患者救済の板ばさみになっていた市との利害が一致し、チッソ県債という歪んだ形ながらもPPPを守らせるという形に帰結したといえる。そのため被害者を救済する前に加害者の救済をしなければならないという、大変大きな矛盾を抱え込んでしまうことになってしまった。
 しかし、県債発行という意外に他の方法はなかったのだろうか。
 県債の発行によっても、現在のチッソに多額の債務を返済できる可能性は少ないと考えられるし、またチッソ債権発行以外にも、チッソそのものを他の企業に売却し、水俣での営業は続けさせ従業員もそのまま雇用し、窒素売却益を補償金などに回し、足が出るぶんを国が負担するといったものや、チッソが倒産したら国にも水俣病に対する責任はあるのだから国が全ての責任をとるといった形など様々な方法が考えられる。
 だが、市民の行動を見るとチッソ支援はかなりの支持を水俣では得ているようであり、チッソだから支援するといった姿勢も見える。これは、チッソという企業への愛着とでもいうべきものがあるのではないだろうか。確かに現在水俣だけでもチッソ・チッソ関連の企業で働いていく人は軽く5,000人を超えるといわれるなか、チッソが倒産すると雇用も減り、まちへの影響も大きいし、患者の救済の問題も出てくる。しかし、それ以上のチッソへのこだわりというか愛着というものを水俣では感じられずにはいられない。この点、水俣以外の地域の人間にとっては、少し理解しがたいものがある。
 水俣市民にとってもチッソへの思いとその救済には複雑なものがあるようであり、『ごんずい 18号』〈 〉の吉井水俣市長の話しのなかでも、93年の市民大会のなかでの水俣出身の若い県会議員の発言に対し市長はつぎのように感じている。
「(若い県会議員の)「理屈じゃないんです。チッソ倒産、水俣病問題、もう理屈はどうでもいいんです」との発言は、それでもチッソに身を託そうとする市民の声として妙に説得力があった。」
 確かに水俣市民とってもはやチッソ救済や水俣病問題は理屈ではなく、何とかしなければならないという感覚的な部分も大きく、市長はそれを理解しながらも市民のチッソへの思いだけで問題は解決できないことも述べているが、水俣では長いチッソとの関係のなかで、もはや単なる一企業以上の思い入れが地域に根づいているのではないだろか。
 また、チッソが倒産すると、再び補償金問題でゆれることになり、それを懸念するものもあったのかもしれない。とにかく、チッソ倒産によってこれ以上の混乱が起きて欲しくないというのが、現状ではないだろうか。
 しかし、これからの環境問題を考えるうえでは、チッソに対し厳しくあたり、チッソが倒産したならば国が直接に引き継ぐという方法を取ったほうが、国の環境への意識や企業への予防措置の強化にもつながり、国の曖昧・緩慢な姿勢を変えることにつながることになったのでないだろうかと思える。

 【現在にも影響を与える問題と水俣の教訓】
 これまで水俣の地域経済の変遷、とりわけチッソと水俣との関係性に重点をおいて見てきたが、水俣の現在に与える影響としてはこれまで見てきたように水俣病を軸として、不知火海などの自然環境の破壊、人体への被害、地域コミュニティの破壊や外部地域からの偏見視など人間関係への被害があり、そしてそれらが地域経済の疲弊として現れた。
 これらの点については、これまでも宇井純、原田正純、色川大吉など多くの研究者が調査し、本文おいてもふれてきたことであるが、ここでは水俣に住む生活者の視点で水俣病の影響と教訓を考えていきたい。
 まず、はじめに言っておきたいが私は水俣において患者を差別した経験を持つ人を一方的に非難したりしないし、また、それはいかなる人においてもできないと考える。
 それは、水俣病の中に水俣があったのではなく、水俣の中に水俣病があったからである。患者にしろ、他の市民にしろ、その背景には毎日の生活があった。そのなかで起きた水俣病は毎日のあたりまえと思われていた生活を破壊し、伝染病の疑いを起こし、産業を疲弊させ、また「よそ者」を多く呼び込むことになり、穏やかな日常を破壊した。
 「よそ者」についてみると、確かに「よそ者」である外からの支援者や研究者による貢献には大きなものがあり、問題の解決にも大きな力となった。しかし、そこに生活するものからすれば、ずかずかと家の中に入り込み高圧的な態度で聞き取りを行ったり、地域の伝統的な慣習を無視するなど、市民の生活を尊重しなかったものがいたことも事実であった。また調査や研究によって得られたものも、ほとんどが地域の人にわかる形で還元されてこなかったため外部から来る人間に嫌悪感を持ち、結果的に外部からの人間を呼び込むことになった患者に反感を持つことになった。
 このような状況下で起きた患者差別は、水俣に住むどんな立場の人であれ自分の生活と密着した切実なところからおきたものが多く、差別した人も本心からの差別ではなく、人の目を気にしたり、自己の発症の不安や、チッソに家族が勤めていたためや、水俣市の行く末を気遣うあまり起きたものが多かった。確かに行き過ぎた差別や非難も多くあったことは本文でも触れてきた。しかし本当に非難されるべきは十分なデータや知識をもちながら原因物質の解明を遅らせたり、見せかけだけの対処を故意的に行った国やチッソの上層部の人間であり、また経済発展のなかでそのような公害にきちんと目を向けてこなかった私たちの責任でもあり、患者を差別した人を一方的に非難することはできない。
 また、水俣の現在につながる問題を考えてみると大きく次のようなものに分けられ、またそこから私たちの教訓になるものも多い。まず、第一に水俣の問題と私たちの教訓として環境の破壊がある。
水俣では、これまで見てきたように日本でもかなり早い時期に産業誘致を行い、その結果水俣に来た企業がチッソであったのであるが、この企業に対し、チッソの水俣支配が進む中、まちは苦情や非難を強く言うことはできなくなっていく。その結果悲惨な環境破壊が起きたが、このようなことは、決して水俣だけではなく、戦後の日本には多く見られたことであり、また、現在でもなくなったとはいいがたい。
確かに、企業の誘致によってまちは栄え、人々も経済的には豊かになったが、水俣では地域の精神的・物質的豊かさの根底とも言える不知火海が"苦海"へと変わり、今も多くの問題が残っており、環境の回復には膨大な費用と時間がかかっており、早期の汚染防止などの対策がいかに必要であるかが伺える。とくに水銀汚染は今も深刻な問題である。だが、日本はそのような深刻な水銀汚染を経験したにもかかわらず、国際的に見てその規制や調査レベルは低く、水俣の教訓を活かしているとは言いがたい。とくに水銀は環境ホルモンの疑いもある物質であるため、早急な対策が求められてしかるべきであると考える。
 また、国やチッソは十分なデータや知識を持っていてかなり早い時期にその原因に気付きながら、放置していたということがあり、チッソなどはサイクレーターが効果がないことがわかっていながら、サイクレーターを通した水を飲むというデモンストレーションまで行って見せたが、現代においても薬害エイズ事件や、原子力問題、そして最近での狂牛病問題でも十分な処置がなされないまま安全性を訴えるデモンストレーションばかりが先行されるなど、危機管理の徹底や早期解決の重要性という水俣の教訓を生かしきれていない。
また、第二の問題と教訓として、人権尊重に対しての問題がある。これもチッソへの依存体質が生んだところもあり、経済の優先からきたものもあるが、チッソの解雇を恐れるあまり、悪条件のもとでの労働や、かなりの健康被害があっても強くいえないということがあり、また、チッソの補償に対する姿勢も患者の人権を軽視するようなところがあった。現在でも解雇を恐れるあまり無理な労働による過労死や、ストレスによる躁鬱症の増加など現代にも見られることであり、また、なにか問題が起き訴訟となった場合、国は救済を求める人のことを考えず、裁判が長引いてしまうことは今も十分に改善されていない点である。水俣では長く患者や家族は裁判に翻弄されることになり、いまだ関西訴訟などは解決がなされてなく、もっと早くに判決が確定されていれば、悲惨な差別問題の拡大も少しは防げ得たかもしれない。
 第三の問題と教訓としては、コミュニティーや人のつながりの問題がある。大抵はそういったものは、わずらわしく、面倒なものに感じられがちであるが、水俣ではその喪失により、それがいかに金銭で代替できないものであり大切であるかが実感された。また、人のつながりがなくなった地域で地域経済が活発化し、地域が活性化することは難しい。
 確かに、外部資本の導入や公共事業などによる一時的な活性化などはあるが、どちらも結局得た金は外に流出してしまうことが多く、また、地域の固有性や自然の多様性を破壊してしまうことになる。そのような地域は日本の各地で見られるのではないだろうか。その結果、村おこし、地域興しなどに取り組む自治体も多いが、多くの自治体では、消費者のニーズを読めなかったり、村の固有性や良さを自覚できなかったため失敗するところが多く、人口の都市への流出に歯止めが利かなかったり、また、一部の人だけが成功しても、結局は地域内のねたみや嫉妬につながり、地域のつながりを回復することはできない。
 確かに、経済的に豊かになれば、人のつながりなどなくても生活できるし、物的に豊かな暮らしを送ることはできる。しかし、それだけで豊かさを感じられる人はどれほどいるだろうか。とくに老後になって地域とのつながりなど何らかの人とのつながりがないということはつらいことではないだろうか。この点に関してはきちんとしたデータの提出もできないし、人の心の問題である以上個人差はあると思うが、大きな問題であると私は考える。
 第四の問題として、以上のことのまとめのようになるが、自分たちでできることはやるということである。水俣では、チッソを頼り、県を頼り、国を頼ってきた。しかし、結果得たものは「だまされた」という感情ではなかっただろうか。原因の解明にしろ、裁判の経過にしろ、頼りがいのありそうなものからは、ほとんど何ら適切な処置はなされかった。
また、患者や漁民の座りこみや漁民騒動などの最後の抵抗とも言える行動も、警察など公権力によって排除されてしまう。むしろ、市民団体や、心情的な同情などからくる損得抜きの患者支援団体や研究者の方が、市民や患者に煙たがられたりしながらも大きな貢献をしてきたし、患者・市民自らの動きのほうが実際的に効果があったものが多かった。
 これは、当然といえば当然のことであるが、今の日本でもすぐに誰かを頼ってしまう構図はないだろうか。地域の疲弊などに対し、役所や国、議員に対して、施設の建設や公共事業の誘致など陳情や要望を繰り返し、実際にそれらが実現しても、欲しかったおもちゃを買ってもらった子供がすぐに飽きてしまうように、また新たな施設や事業の誘致や陳情などを繰り返していないだろうか。
 とくに公共事業に依存してしまうと、事業以外の産業は疲弊してしまい、もはや事業がなくては地域が成り立たなくなってしまう。このような自治体は決して少なくはないはずである。また、公共事業の交付金により道路などのインフラ施設も増え、雇用も増大するというプラス面を全面的に押し出し、過疎や人口流出に悩む自治体には必要だという声は、大規模な公共事業などにつきものであり、大規模な公共事業などに対し建設か自然保護などの立場からの建設反対かでもめている自治体もあるが、そもそも過疎に悩む地域などの人々に巨大工事と多額の交付金をもって建設に同意を迫るやり方は、行政が本来なすべき地域対策を怠ってきたことを今度は危険つきで行おうというきわめて差別的な政治の現われではないのだろうか。
 このように、水俣から見えてくる問題や教訓は決して水俣だけのことではなく、多くの自治体などにも通じることであろう。とくに、地域経済の活性化ということについてはどこの自治体にも関心のあることではないだろうか。
 水俣は以上見てきたような問題から、2つのことを大きな柱として現在行動している。
それは、環境や健康に気をつけること、そしてどこに頼ってもどうにもならないのなら、自分たちが変わる、そして自分たちでできることは自分たちでやるということである。
 次の章においては、これまで見てきたように水俣が悲惨な状況をどのように克服し、現在の活性化した水俣として再生していくまでの過程について見ていきたい。


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