地球サミット10年の危機
ヨハネスブルグ環境開発サミットの問いかけ 古沢広祐
(1) 地球サミットの成果とその後
1992年、ブラジルのリオデジャネイロで開かれた地球サミット(国連環境開発会議)は、世界およそ170カ国からのべ4万人を越える人々が集う史上空前のイベントとなった。いま思えば、地球サミットで目指されたことは、まさに21世紀社会に対する人類的挑戦だったと言ってよかろう。当時、NGOグループの一員として参加し、そこに国家利害や国境の壁を乗り越える、地球市民の登場とでも言うべき新たな時代の幕開けを強く感じることができた。
地球サミットで議論されたのは、開発・発展のあり方や環境保護との矛盾を将来的にどう克服するかであった。それは、環境配慮とともに、南北間(先進国・途上国)格差の是正や世代間公正(未来への配慮)の問題をどう実現するかという非常に困難な課題の解決への模索である。不十分なものとはいえ、「リオデジャネイロ宣言」、「アジェンダ21」(21世紀に向けた行動計画)の採択、「温暖化防止(気候変動枠組み)条約」、「生物多様性条約」の締結、森林保全に関する原則の合意などが実現したことは、とりあえずの第一歩といえるだろう。
政府間の合意の取りまとめが、さまざまな利害対立のなかで難渋をきわめたのに対して、世界各国から集まったNGO(非政府組織・民間公益団体)が主催したグローバル・フォーラムは、人類の新しい歩みを象徴するかのごとき画期的な取り組みの一端を垣間見せてくれた。地球に生をはぐくむ生命共同体の一員としての自覚、これからの人類が共通して担うべき新たな倫理意識ないし未来に対する責任に目覚め始めた草の根(グラスルーツ)のグループの国際的連帯が、国の壁を越えて大規模かつ広範な広がりのもとで実現した意味は大きかった。
しかし、その後の10年の流れは、時代を後戻りさせるかの如き様相を呈しだしている。92年地球サミットでかかげられた環境と開発の調和の理想を、ことごとく打ち砕く困難な現実を私たちの眼前に見せつけている。地球温暖化、生物多様性、森林保全など、対応すべき課題と枠組みは見えだしてはいるものの、いずれも問題解決にはほど遠い状況のなか、足踏み状態が続いている。
それ以上に深刻な事態は、南北間格差と貧困問題という社会的な歪みが、是正されるどころか悪化の一途をたどってきたことである。世界全体で所得の多い上位20%の人々と所得の少ない下位20%の人々の所得格差は、60年には30対1であったのが、90年には60対1、そして97年には74対1へと拡大し続けている(『グローバリゼーションと人間開発』UNDP、1999年)。社会的歪みの根元には、経済のグローバリゼーションの問題があり、石油など天然資源の確保、生物遺伝資源の囲い込みなど、経済的・政治的な利害が大手をふってまかり通り、それを陰に陽に軍事的な圧力が後押しする旧態依然の時代状況が再び立ち現れている。テロリズムや民族紛争の温床に火をつけ、歪みを押しつぶそうとして爆薬に火をつけるかのような様相さえ出だしている。
世界が今向かいはじめた方向、すなわち有事・戦争を前提とする事態への移行は、人類が築きあげた「民主主義と人権」や「環境と平和」を、内にも外にも消滅させてしまう恐れを私たちに突きつけている。地球サミットで先進各国が合意したはずの、途上国へのODA増額目標(GNPの0.7%)は、目標の3分の1レベルに止まったままである。極端な言い方をすれば、人を殺すための軍事費は、冷戦体制の消滅後に一時減少したものが再び増加し始め、年額約8000億ドルとなった。人々の命と生活を支援するための政府開発援助(ODA)世界総額の16倍もの規模である。同時多発テロ事件(9.11)以来、アメリカのテロ対策とアフガニスタン攻撃に計上された国家予算は、世界ODA総額とほぼ同額である。そこに、世界の現実の一面がはっきりと映し出されている。
(2) 社会的公正への取り組みの遅れ
ここで、あらためて「持続可能な発展・開発」が目標とした理念と現実の歪みとは何なのかを明確にしておこう。地球サミット以降、世界的なキーワードとなった「持続可能な開発・発展」のとらえ方は様々だが、簡略に規定し直せば、経済の維持・発展を、2つの座標軸においてバランス調整するということである。すなわち、これからの発展を、<環境的適正>の軸と<社会的公正>の軸の基に調整をはかっていくことに他ならない。
現実の動向をみるかぎり、環境的適正においては、不十分ではあるものの国際条約や協定など幾つかの枠組みが何とか機能し始めようとしている。他方、社会的公正という面では、不十分どころか世界的な格差の拡大に見るように、事態改善の兆しはほとんど見えていない。国連としても、居住、人口、女性、食料問題などの世界会議、社会開発サミットなどを開催はしてきた。一部にフェアトレード(公正・草の根貿易)などの運動の広がりや、途上国の債務削減の実現の動きなどんもあるが、全般的にほとんど進展がないと言ってよかろう。
一言で社会的公正と言っても、各国レベルでの制度の違いや体制が整わない状況があるのだが、国際的な取り組みの方はと言えば、貿易や投資の枠組みとしてのWTO(世界貿易機関)体制と比べてほとんど機能していない状況である。国連の本体みならず、例えば国際労働機関(ILO)の相対的弱体化(条約批准の遅れ等)、国際司法裁判所や刑事裁判所の未整備状況など、課題は山積みである。実際、基本的人権や貧困、弱者への配慮など、どの面でも行き詰まりをみせており、とりわけ9.11同時多発テロ事件以降、事態は逆行し、環境、人権、民主主義のすべてを否定する”戦争”を容認する雰囲気さえ醸し出されている状況である。
持続可能な開発の視点から、92年地球サミット以降の10年をここで再度総括しておこう。大局的に見るかぎり、環境や社会的な配慮のための各種制度的な枠組みは、遅々として進んでいないのが実情である。持続可能性の基本原則(上記2つの調整軸)を組み込む動きは、旧来型の体制(経済効率優先)にとっては大きな足かせ(例えば、市場の制約や貿易・投資の新たな規制)と見なされるので抵抗が大きい。とくにグローバル化した市場経済の拡大圧力は、自由貿易(WTO)体制下でいっそうの規制緩和を求めており、環境に名を借りた保護主義・規制主義の台頭として強く警戒されている。しかし、環境規制の枠組みがきちんと社会経済システムに組み込まれない限り、持続可能な社会の形成は進まないのが実体である。
日本でも、例えば温暖化対策(CO2削減)が運輸部門や家庭部門でなかなか進まないのは、価格破壊と流通拡大が優先されていることと無関係ではない。すでに欧州諸国で導入され始めている、環境・税財政改革のような制度枠組みの変革にまで踏み込まなければ実効性は期待できない状況である。市場主義への過度な依存、自由化と規制緩和政策に偏重する米国流の政策とは一線を画すべき時にきている。
その意味で、制度を定める大枠として、例えば国際条約によるCO2削減や生物多様性保全の枠組みづくり、国際的な民間主導の環境ISOの取り組みなどを強化・推進していくことは意味がある。整合性という視点に立てば、ローカルからグローバルまで、個々人の環境意識形成から個別事業活動、地域・自治体レベル、国家的な制度、国際的な枠組みづくりなどが、相互的・多層的な枠組みとして形成されることが課題である。そうした積み重ねが、従来の発展形態を転換していくための第一歩となろう。
多くのNGOが提起しているように、国際諸機関の構造改革とともに国家の枠組みを超えた多国籍資本の社会的責任を強化していく必要がある。超国家的な営利活動に対しての調整メカニズム、すなわち歴史的に形成されてきた国家ベースでの課税・再分配システムや社会・福祉制度の充実と同様に、例えば短期資本移動に対する国際課税(通称トービン税)等といった国際調整メカニズムを組み込むことによって、地球的公正の実現をはかることはきわめて大きな課題である。同じく、武器貿易の削減・禁止や課税制度の組み込みなど、重要課題は山積している。
(3)理想と現実の落差をどう埋めるか
今回の環境開発サミットは、92年リオサミット以降10年のいわばし切り直しである。すでに国際条約の下で動いている個別課題とともに、「アジェンダ21」という包括的な課題の取り組み状況を検証し、より具体化を目指すための公式会合である。公式の取り決めとして、ヨハネスブルグ・サミットにおいて採択されるものには、「政治宣言」、アジェンダ21のいっそうの具体化を各国政府が目指す「世界実施文書(ヨハネスブルグ・サミット実施計画)」(タイプ1)、自由な枠組みでNGOや企業、政府が自発的に提示する「約束文書」(タイプ2)が予定されている。
5月末にインドネシア(バリ島)で開かれた最終準備会合では、実施文書の草案合意ができずに本会議へ持ち越しとなった。なかでも対立が際立ったのが、予想通り資金、貿易、企業責任などに関する内容であり、合意形成は見送られた。おそらく、本会議でも具体化をめぐっては議論が再沸騰し、玉虫色の形式的な体裁しか合意されないのではないかと危惧される。結局、政府間での確実な目標設定はぼやかされ、自発的な「約束文書」でどうにか形を整える動きが予想される。
多くの駆け引きや状況認識のズレで議論百出が予想されるが、できる限り具体的な目標設定と実施計画を政府レベルでどこまで詰めきれるかが、大きな勝負所である。しかし、たとえ合意形成されても、アジェンダ21の不履行状況が再現される恐れは大きい。その意味では、「約束文書」には担保的な意味が付与されるとみてよかろう。私見ではあるが、悲観的な見方を持たざるを得ないのが正直のところである。
少なくとも徹底的な議論をし尽くして、公式の場で問題点を明確にすることは欠かせないだろう。そして、おそらく国家的な枠組みの限界がさらけ出されるなかで、その上でNGOの自由かつ創造的な提案や行動計画、戦略目標が数多く提示されることを期待したい。
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ニューヨークやバリでの準備プロセスをみるかぎり、環境と開発をめぐる世界の道を定めるヨハネスブルグ会議は、92年地球サミット当時の崇高な理念と方向性の提示から一転して、各国の利害対立が際立つとともに一面では内政と外交の膿と歪みを暴き出す場となりだしたかにみえる。大きくは、戦後世界の発展枠組み自体が根底から問われ、歪みが露呈しだしているといってもよかろう。
そうした意味では、NGOセクターの役割は、国境を越えた草の根ネットワークの形成によって、国際的な視点で矛盾を映し出す重要な担い手として再登場することが期待されている。ヨハネスブルグ会議を、国家エゴの対立や、途上国側から先進工業国への突き上げと資金提供の政治的圧力の場など、表面的な駆け引きの場としてだけで見てはならない。地球サミット後10年の理念との乖離がいかに拡大してきたか、その現実を直視して矛盾と膿を出しきることがまずは必要なのだと思われる。
そして、国家的枠組みでの政府間会議の限界性を超えて、地域から国際レベルまで多面的な調整機能や相互協定(政治的枠組み、ガバナンス)を、NGOやNPOによって展開・醸成されていく契機に期待したい。混迷を深めている現代世界の膿(うみ)をさらけ出し、持続可能性と地球的公正の視点から多くの課題への処方箋と青写真を描き出す作業が、個別利害にとらわれないNGO
、NPOに求められているのである。
[参考資料:『地球文明ビジョン』NHKブックス、1995年、第T部より]
20世紀型文明から21世紀型文明へ
92年地球サミットそのものの全般的な評価について一言ふれておこう。政府間の地球サミットは、二一世紀にむけて国際的に環境問題へ取り組むための礎石として、リオデジャネイロ宣言やアジェンダ21、2つの条約の締結など形の上ではいちおうの成果をおさめた。しかしそこには、20世紀の人類の文明史的せめぎあいとでも言うべき状況が色濃く映しだされされていた。それを象徴的に示したのが「温暖化防止条約」と「生物多様性条約」の2つの条約の顛末であった。
前者が体現したのは、大量生産・大量消費に基づいた現代アメリカ文明を背負った米国政府(当時のブッシュ大統領)が最後まで足を引っ張り、炭酸ガスの排出抑制提案を骨抜きにし、後者に関しては条約の調印自体を当時の米国政府は拒否したのだった。こうした事態は、地球サミットの直前までの米国政府の動きを見ればほぼ予想がついたことである。91年初めには米国の自動車産業(ビッグスリー)の代表を引き連れた大統領の来日に象徴されたように、産業優先を旗がしらにした官民あげての政策が次々ととられていたからである。
当時、大幅な規制緩和や産業優遇政策が相次いで打ち出され、例えば90年11月に施行された大気浄化法を骨抜きにする産業プラントの新増設に対する規制緩和(有害ガスなどが排出権の量を越えても公聴会にかけずに届出だけですむ)や、原発認可手続きの簡素化(公聴会等も限定し、建設期間を短縮させる)、バイオテクノロジーによる新種の栽培基準の緩和そして遺伝子工学利用食品の安全規制を必要なしとするなど、次々出される企業優先のテコ入れ策は環境や安全性を軽視する産業偏重の色合いが非常に濃いものであった。
規制緩和のもう一方で強化されたのが、半導体の回路保護法など一連の立法措置の延長線上に次々と行われはじめた様々な特許やソフトなどの著作権をめぐる権利(知的財産の私有権)の拡大と保護であった。すなわち国際競争力を高めるための有力な手段として「知的所有権」の保護・強化が、米国の産業政策の重要な柱になったのである(注へ: D.ディクソン著『戦後アメリカと科学政策』同文館)。それは従来のエレクトロニクス関連からバイオ関連技術へと広がり、遺伝子組み換えによる改造植物や微生物への特許権のみならず改造実験用ネズミにも適用され、ヒトの遺伝子解読情報まで適用範囲を広げ、大きな議論を呼ぶに至っている。
ここで注目しておきたいのは、今世紀の米国産業をリードしてきた巨大石油関連資本が次々と種苗関連会社やバイオ関連のベンチャービジネスを買収・吸収してきたことである。新たな産業の再編が準備され出しており、石油関連産業など20世紀の中心産業が次なる世紀に向けての支配力強化の基礎がためを行っているとみることができる。
地球サミットを舞台に2つの条約をめぐって繰り広げられたかけひきとは、次のように分析、読み解くとわかりやすいだろう。すなわち、石油関連・自動車関連産業の利害を一身に引き受けた当時のブッシュ大統領は、いわば20世紀型文明を代表する存在として地球サミットにのぞんだ。そして不参加をちらつかせながら譲歩を迫り、90年レベルまでという抑制目標さえ明記できない温暖化防止条約が最終的に締結されたのであった。
他方、生物多様性条約の方はといえば、当時の米国は締結さえ拒否した。その背景に21世紀の世界経済を制するための新たな産業戦略の影がつよく浮き出ていたことを見落とすわけにはいかない。ただし、この生物多様性条約は、さまざまな利害が複雑にからみあった内容を含んでおり、条約のねらいや評価自体をめぐっては議論が分かれている。多様性の保全として、マクロレベルでは生物種や生態系の保全が語られる一方、ミクロレベルでは遺伝子資源・バイオテクノロジーが対象になっていることは、その利害の複雑さを反映している。
当初、生物多様性を保全する区域として具体的な優先リストがあげられていたのだが、最終的には条約からリストが省かれた。そのことで環境保護団体は条約の実行性が大幅に弱められたとして強く反発した。他方、遺伝子資源の利用をめぐって、多様な生物種を抱える途上国側は、バイオテクノロジーなどによる遺伝子資源の利用・開発に対して原産国としての帰属権とくに開発利益の還元を強く主張した。そして結果的には、途上国側の主張をある程度反映させることに成功した。
さまざまな特許の権利を産業戦略の強力な柱にし、知的所有権の分野をバイオテクノロジーの成果にまで広げようとしていた米国としては、途上国のこうした動きに強く反発したのだった。つまり自然の保全という点では中身が薄められた条約にもかかわらず調印さえ拒否した理由はそこにあったのである。これはすなわち、20世紀型文明を代表した米国が、いわば旧来の価値観と制度的枠組みの延長線上に、21世紀の世界を制しようと企て、つまるところ地球サミットの場では孤立・撤退を余儀なくされたといえるのではなかろうか。
21世紀に向けて、地球と人類社会が共生できる文明を創り出すための新たな理念・枠組みが地球サミットに期待されたのであったが、残念ながら旧い文明が最後まで足を引っ張ったわけである。現文明を越えるような新たな理念や制度的枠組みの構築に関しては、残念ながら大きな前進があったとは言いがたい。
NGOが提起した新しい視点
今回の地球サミットでは、政府間レベルでの協議とは別にNGOの取り組みが注目をあつめた。NGOのフォーラムでは、30余りのグループが市民の地球的連帯を目指したNGO条約(拘束力はもたない主体的参加による協同理念・行動目標)づくりに取り組んだ。そのなかの例えば生物多様性条約について政府のものと比較してみると、その立脚点にまず根本的な相違がみうけられた。
簡単に言ってしまえば政府サイドでは、保護すべき生物の多様性はどちらかと言うと人間とは切り離された別なもの、管理すべき対象物としてとらえられている。生物種あるいは生態系ないし遺伝子資源として、それらは、現在の産業社会を前提にした上で利用(または保存)するための保全対象という位置づけなのである。それゆえ利用価値として取り出されるもののなかで将来有望視されているバイオテクノロジーに関連した遺伝子資源とそれからの生産物の所有権をめぐって、先進国と途上国が国家的利害に基づいて大きな対立をみせたわけである。その対立のなかで、20世紀型文明の枠組みをそのまま持ち込もうとバイオ関連の多国籍企業の知的所有権(利権)の確立を目指そうとした米国が、条約の締結さえ見送らざるをえない事態になったのだった。
これに対し、NGOの条約のうちの生物多様性条約について見てみると、まず基本的な相違として注目したいのは、保全すべき対象物(生物種や生態系)が人間社会と別なものとして切り離されてはいない点である。すなわち、生物の多様性の延長上に人間の社会や文化の多様性が連なってあることが基本的前提として踏まえられている。いわば、生物社会と人間社会の多様性が同列なものとして位置づけられており、文化や社会、あるいは農業や農村、衣食住の生活様式、さらには人々の精神的世界の多様性までもが位置づけられているのである。「・・・生物多様性は、文化、経済、社会、そして人々の精神的成長や生活の質に決定的な影響を与えてきた、・・・その保全には、固有の文化をはぐくむコミュニティの能力を高めることが不可欠・・・」(同条約)というように、それらはまさに連続した存在としてとらえられている。
すなわち、生物多様性を守るということは、ただ原生的自然だけを残す聖域づくりにとどまるものではない。自然の多様性にはぐくまれ相互に交流することを通じて、人類は多種多様な文化や社会を形成し、伝統や生活様式を産みだしてきた。そのことの再認識、再評価を多様性の本質的な意味としてとらえようとしている点が重要なのである。
そこではまた、知的所有権や利権といったせまい私的な利害関係や産業的・経済的利用だけで自然を囲い込むことへの批判が表明されている。先住民族をはじめとする伝統文化が培ってきた歴史的な価値としての独自性の評価とともに、未来につながる人類全体として大切に共有すべき固有の価値として尊重しようとの姿勢が明確に打ち出されている。多少大げさに言えば、21世紀型文明へ向けての新しい枠組みへの模索、すなわち21世紀の人類が持つべき基本的理念ないし新しい倫理観が先取りされているといってもよかろう。
こうした多様性をめぐる新たな視点は、92年という年を地球環境元年にする以上に、「コロンブス500年」の位置づけとして、西洋文明による侵略と収奪を再確認する動きとも重なっていた。すなわち、”環境ならびに文化的多様性の破壊”(同質化・西欧化の強制)の歴史としてとらえ直す再出発の年にしようとする多くのNGOや第三世界の代表者たちの主張があり、多様性をめぐる議論の根底にはこうした思想的潮流も流れ込んでいたのである。
自立・分権・循環に基づく定常・交流型社会
多様性への視点や自然と人間の関係性の見直しと同様に、現代文明の中核部分をなす都市生活、産業組織、経済・貿易体制についてのNGOの主張もたいへんラディカルな内容をもっている。「代替(オールタナティブ)経済モデル」「消費とライフスタイル」「貿易」「多国籍企業」などのNGOの条約の概要を見てみよう。
これまでの経済組織体の活動は、市場経済と自由貿易制度のもとで生産および利益の拡大を自己目的化しながら、ついに地球規模で資源や労働力をより経済的に(他より有利に)利用するグローバル・エコノミー(地球的競争経済)をつくりあげてきた。大量の資源消費と廃棄物や環境破壊を増大させながら、驚くべき富と財を産みだしてきたわけだが、このような発展パターンの永続性(持続的成長)は明らかに限界にきているばかりか不均衡と格差の拡大というジレンマに陥っている。
現在、地球全体では2割の人々が8割の資源を消費しておりその格差はますます広がりつつある。UNDP(国連開発計画)のレポートによれば、世界の20%の人口への富の集中度は、1960年の70.2%から89年の82.7%に拡大している。富の集中は過剰消費やさらなる利益追求を生む一方で、結果的には、貧困、環境と文化の破壊、そして精神的な画一化(モノカルチャー)や貧しさが生み出されている。
従来の経済モデルに対しオールタナティブ・モデルの主要な原則は以下のようなものとして示されている。
* 経済の活動は、利潤追求の目的ではなく、食料、住居、教育、健康、文化的充足を基本とするコミュニティの福祉・福利の向上にむけられるべきであり、環境を破壊せず天然資源を将来世代のために保存することに心がけねばならない。
* 市場経済では計量されない、人々の経験や歴史、自発的能力の開花、決定への民主的参加、並びに生態と文化、先住民や農村コミュニティの知恵や技術、そして女性がはたしてきた役割を再認識し評価しなければならない。
* そのためには、自由貿易や世界市場並びに中央集権的な力をもつ巨大企業を前提とした上からの経済活動ではなく、コミュニティや地域そして国レベルでの自給性を重視する経済、かつ下からの発展の力を基礎とする社会を形成する必要がある。また、そこでの倫理規範は、全ての人々さらにあらゆる生き物から物質に至るまで、それらが相互依存関係にあることを認識し、人間としての責任を自覚することである。この相互依存関係は、自立、公正、参加民主主義、そして連帯を基礎にしたものである。
* 人間と経済の発展は、物質的生産力や技術の発達に直結させるのではなく、個人、社会、そして環境の良好さに基づかねばならない。それを測る指標として、健康、男女平等、無償の家族労働、所得分配の平等、子供への良好な配慮、そして資源の利用と最終廃棄物を可能な限り最小にした上で人間的幸福の可能な限りの達成、といったことなどを正しく評価することが必要である。
以上のような原則のもとで具体的な行動としては、途上国の累積債務の解消、軍事費の削減・転換、武器貿易の禁止、環境的・社会的コストの正当な評価、炭素税(環境税)の導入、そしてコミュニティ企業・協同的な慣習や事業体およびボランタリーな交換システムの促進等が提起されている。
こうした視点に立つことによって、大方のNGOグループは大企業の経済的利害を最優先させた現行の世界銀行・IMF(国際通貨基金)体制およびGATT(関税貿易一般協定)の自由貿易一辺倒のあり方に対して明確に批判的立場を打ち出している。そしてよりグローバルな視野と将来世代への配慮を基本においた企業倫理や国際的枠組みの必要性が課題として提起されている。なかでも多国籍企業に対するきびしい行動基準の遵守がつよく打ち出されている点は強調しておきたい。具体例として「多国籍企業行動の民主的規制」のNGO条約をみてみよう。
「多国籍企業は、地球規模の環境危機、および”開発”の結果生じた社会的・経済的問題の多くに責任を負っている。それはまさに、権力と生産の集中とともに社会・政治的不平等と文化的多様性の損失を導いた開発の中心的主体である。」(実際、多国籍企業上位50社が占めるシェアだけで、国際貿易の70%以上、海外投資の80%以上に及んでいる)
資源の採掘・採取・伐採から運搬・加工・流通・販売に至る巨大なグローバル・ネットワークが多国籍企業を中心にして形成されている姿をリアルに認識すれば、「彼らこそ、大気・水・土壌・海洋資源・生物の多様性の破壊と主要な有害化学物質の生産の大半の責任がある・・・」というNGOの主張はとりたてて過激とは言えないだろう。このNGO条約の中で、地球サミットの会議で多国籍企業の行動規制に対し何等取り組みがなされなかったばかりか、国連自体がその多国籍企業センターを改組・弱体化してしまい、さらには国連総会での「多国籍企業の行動基準」の採択が出来ない状況に対して強い批判が表明された。
「多国籍企業は、活動を行う全ての国において、最もきびしい環境、健康、安全、労働条件、情報公開の基準をもたねばならない」といった条約の一文が提起するものの意味は大きい。わが国でも九一年、マレーシアにある三菱化成の系列企業が放射性廃棄物を出していたとして、現地高裁による操業停止の判決が話題を呼んだが(その後最高裁で逆転)、国際的な企業活動への規制はたいへん重要な課題である。環境規制に関しては、通産省調査(91年)によれば日系海外進出企業で日本並の環境基準を設定しているのは全体の一割にも満たないのが実態だという。
GATTからWTO(世界貿易機構)への再編のなかで、貿易と環境規制や労働基準が重要テーマとして議論されだしているが、ここでもNGOは問題を先取りしていると言ってよいだろう。
具体的な行動提起に関してみてみよう。NGO、消費者団体、労働組合など様々な草の根グループのネットワークを広げ、監視、対抗行動、キャンペーンの連帯行動が呼びかけられている。面白いのは、「環境にやさしい」を売り物に安易な宣伝広告する風潮に対し、無意味なくだらない環境広告に「グリーン・ウォッシュ(緑の化粧ぬり)賞を授ける等といった提案があったことだ(すでに先例としては、環境保護団体「グリーン・ピース」は、独自調査により9つの多国籍企業をターゲットに疑似環境企業として批判・告発を展開している)。
最後に私たちのライフスタイルへの提案、「消費とライフスタイル」の条約のなかでどんな提起が出されているかについてもふれておこう。そこでは<6つの原則>(頭文字が6つのR)が提起されておりその項目は次のようなものである。
@価値の再評価、問い直しをしよう。(生活の質、人間関係、創造性、文化・芸術・精神性、自然・生命への敬意等)
A社会のシステムを再構築しよう。(人間の基本的欲求の充足、環境・社会的コスト、参加と平等などの実現)
B再分配を行おう。(水、食料、空気、土地、その他資源、生産・消費のあり方などの見直し)
C削減しよう。(過剰消費、長距離運搬などを減らしていく)
D再利用を行おう。(簡素、永続性を基本にできるだけ有効利用に努める)
Eリサイクル。(循環型の社会を実現する)
以上、簡単に政府間の地球サミットに対抗してNGOがどんなビジョンを展開しようとしているか、その一端を紹介した。たんなる非現実的な理想論と思われる方もいるかもしれない。だが、自然観、経済モデル、多国籍企業の規制、ライフスタイルと価値観、生産・消費システムの変革、そこに自然や地球との関わりを深く認識し、地域の個性化とともに世界的共同体へと進む21世紀人類の新しい文明を展望する重要な手がかりがこのNGOの動きにはあるのではなかろうか。
おそらくこれからの時代の変化は、NGOなど草の根市民のグローバルな活動展開とともに、国際的にも外なる新たな枠ぐみ(多国籍企業や貿易システムのコントロール)の形成が進む一方で、内部ないし下からの価値観・ライフスタイル(地域コミュニティから精神的世界まで)の”内なる変革”が徐々に同時並行的に進んでいくのではないかと思われる。
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